53
矢沢永吉、50代の走り方。

第14回 決断をすることへの、敬意。








最初、サンザンな目にあう。
二度目、オトシマエをつける。
三度目、余裕。

こういうふうにビッグになっていくしかない。
それには、サンザンな目に会った時、
落ち込んじゃだめだ。

どうして落ち込まないか。
はっきり目的があるからだよ。

入場料を払って、客は観にくるんだ。
空っぽのものを観せられたら腹を立てるに決まってる。
前と同じってのも、そうだ。
客も、オレも安心感はあるだろう。
でも、それじゃ、解散したことが無意味になってしまう。

自分の過去を無意味にしてもいいのか。
いやだよ、オレは。



          『成りあがり』(矢沢永吉・角川書店)より







【※前回から、矢沢永吉さんの
 『成りあがり』につぐ自伝である
 『アー・ユー・ハッピー?』(※販売はこちらです)
 の編集者、日経BP社の柳瀬博一さんへの
 インタビューを、お届けしているところです】



ほぼ日 柳瀬さんは、30代後半ですが、
これまで、70代や60代の経営者たちと
たくさん会われていますよね。

ですから、
矢沢永吉さんの年齢である
53歳に関しても、そんなに
「年齢、上だな!」という印象は
持たないような気がするんですけれど……。

柳瀬 そうですね。
ぼく自身は38歳ですが、
ビジネス分野の記者/編集者という仕事柄、
年齢が上の方と会う機会が多いんです。
経営者クラスですと、60代の方が多いですし、
70代の方も珍しくない。80代で現役の方も
いらっしゃいますし。

ですから、
53歳って、そんなに
「年寄り」って感じはないですね。
ぜんぜん現役で、バリバリの時だというか。


しかも、トシに関する感覚って、
年代によってずいぶん変わってしまう。
たとえば戦後すぐの吉田茂が
サンフランシスコ講和条約に調印する時だって、
67歳なわけでして……いまの政治家より、
若い時に、いろんな決断をしていたわけです。

だから、いまは、なおさら、
53歳が、ある意味で
「若い年齢」になり得るのでは。

ほぼ日 では
矢沢さんの53歳というのは、
どのような成熟のしかたに見えますか?

柳瀬 さっき申し上げたように、
ぼくは53歳というのは、
あんまりトシに見えないのですが、
「矢沢さん、53歳なのに、こんなに
 たくさんのことを経験しているんだ!」
と思います。
53歳で、あんなに濃い経験を
たくさんしている人って、あまりいないと思う。

矢沢さんの場合、
ずーっと独立して仕事をつづけてきた。
20代で1回ピークに立ち、
30代でいろいろと苦労をして、
40代に入って転換期を迎えて、
40代後半でキツくなり、でもそれらを
ぜんぶ自分で経験して、自分で解決してますよね?

誰かに頼んでるわけじゃないですよね。
自分で経験したうえでつちかっている経験度数は、
一般的な53歳とは、かなり違うと思います。

ぼくは新人のころ数年は経営誌の記者をやりまして、
いまは、編集者の仕事をしています。
経営誌記者、というのは、
往々にして、誌面で
どこかの会社や経営者の批判をしなければならない。
批判や批評というのは
ジャーナリズムの非常に重要な要素です。
ですから、きちんとした批評は、
積極的に行うべきなのですが、
なんというのかな、
自分が年齢を重ねるごとに
「批評」「批判」が
だんだん、できなくなってきました。

「それは、なんでなのかなぁ?」
と、自分でも疑問だったんですけど、
その理由が、わかってきたんです。

単純なことだったんです。
「自分で決断している人に、
 そうじゃない人が言えることって、少ない」

ってことだったんです。

ほぼ日 その話、もうすこし
詳しくうかがえますでしょうか?

柳瀬 一本で独立している人と
サラリーマンとの違いという感じです。

ぼくはサラリーマンですから、
前々から、自分自身の中のサラリーマン体質と、
独立してやってる人との差が、
いつも、とても気になっていたのです。
ひとついえるのは、
サラリーマンと
一本で独立している人の決定的な違いって、
「知識としての差」ではない。
知識の量は、たいした問題じゃない。

だったら、何に差があるのかと言うと……
きっと「決断するということ」なんですよ。

わかれている道が目の前にあって、
どちらの道に行くかを、
ひとりでポンと決めることの連続の日々。
それこそが、
「一本で仕事をするということ」です。


「これは誰かに任せよう」という決断にしても、
誰かに任せるという責任が出る。
そこは、企業の土俵で決断をしているのとは、
かなり違うプレッシャーがかかるし、
しんどいし、キツいし、
かなり面倒なことじゃないですか。
どんなに外見上は遊んでいるように見える
経営者でも、そのひとが「本物」ならば
きっとそうです。

常に決断決断とつきつけられるのが
面倒くさい。そういうひとは
必然、サラリーマンの道を選ぶ。
ぼくの場合はまさしくそうでした。
決断をしないかわりに、
サラリーマンという、ある種、
不自由な場所に身をおくことで
等価交換をしているのでしょうか。

もっとも
ぼくのようなサラリーマンの道を選ばなかった、
「決断をする人」にとっては、決断するのは、
当たり前のことなのかもしれませんが。

矢沢さんのように、
ひとりで決断するのが当たり前の人にとっては、
むしろ、自分の上に勝手な命令系統が
もうひとつあるという不自由さのほうが、
決断のキツさよりも、
はるかにイヤなことのはずです。

ほぼ日 なるほど。
たしかに、矢沢さんは決断決断の連続ですね。

柳瀬 でも、
そういった「決断している人」たちを
評価したり批評したりする
メディア側が、マスコミ側が、
決断すること自体の厳しさを
わからないで記事を書いているケースが
ままある。

……あ、もちろん、
「こういう要素で失敗しましたね」
とか、
間違っていたら間違っていたと書いていいし、
筆を緩める必要はぜんぜんないと思います。
さっきも言いましたが、
健全な批評こそはマスコミの重要な役割ですから。

しかし、ぼくの場合、
「この時、どういうプロセスで決断したのか?」
「なぜ、こういう決断になったのか?」
そこで決断を下した人間の
「内実」を抜け落としたまま、
失敗したことだけをあげつらう。
そんな記事を書いていた
自分に気がついたんですね。
実は気づいたのは、記者から編集者になってから。
ここ数年の話なんですが。

「こういうことを考えて、
 実行しました、失敗しました」
確かにそうでしょう。
でも、やった時にはやったひとなりの
決断があったんです。
結果だけを見てそれを生む人間の
優劣を判断するというのは、違うと思います。
決断という川を飛びこえた人だけが、
実際に何かをトライできるんです。


成功したか。失敗したか。
結果からみたら、行き着く道はふたつしかない。
でも、そこにいたる過程は、
なだらかではない、
そのひとそのひとの道がある。
その道は、
ぼくのようなサラリーマン記者が
外側からちらりと眺めるだけだったら、
なだらかに見えてしまうかしれない。が、
大勝負前の決断というのは、
ひとつひとつ、大きく分断されていますから。


矢沢さんは、若い時の、
田舎から出てくる時から、
その決断ばかりをやってきたわけで、
それはなまなかの53歳にはないものがある
と思うんです。

ほぼ日 さっき、柳瀬さんが
「53歳の割にすごい濃い経験」
とおっしゃったのは、そういう意味ですか。

柳瀬 はい。
おそらく大半の同世代の
サラリーマンに比べれば、
圧倒的にたくさんの、そして大きな決断を
矢沢さんはしてきているでしょうから。

ほぼ日 「決断をしたこと」という
そのことだけでも、すごい大きな出来事だと。

柳瀬 ええ。
もちろん、決断だけでほめはしませんし、
失敗の原因を語るのは必要なことですけれど、
決断をしたこと自体には、
ぼくはサラリーマン側にいる人間として、
いつも敬意を払いたいと思っています。

「どうして決断したのかなぁ」
という視点を持って『成りあがり』や
『アー・ユー・ハッピー?』を読むと、
とても、おもしろいと思いますよ。
一回一回、ふつうならどんなに不安な橋を
矢沢さんが渡ってきたかが、わかりますので。

個人で決断している人どうしは、
もちろん悪口を言いあっていいけれども、
個になっていない人が、責任をとらないまま、
個人として頑張っている人たちの欠点を
あげつらうというのは、こわいことですね。

ほぼ日 そんな「決断のひと」矢沢さんは、
『アー・ユー・ハッピー?』のなかで
まさしく
自分と同じ50代のサラリーマンに
エールをおくってますよね。
「日本のオヤジがパワーを出すときが来たんだ
 熟練のツッパリ、オヤジのツッパリを見せてやれ」
と。

柳瀬 極端な話、これまでの日本では、
サラリーマンは
決断をしなくても、やってこれた。
あえて言うならば、
歳をとっても、
早期退職するか。それとも会社に居残るか。
くらいしか、個人の決断はなかったりする。

でも、たぶんほんとうは違うんだと思います。
サラリーマンだって、
決断するとき、しなきゃいけないときが、
必ずある。
特に、戦後の高度成長期が終わって、
大企業がばたばたつぶれてるような
今のような時代、
サラリーマンを続けることだって
リスクをかかえている。
普通のおじさんが、あるいはおばさんが、
決断しなきゃいけないときがどんどんでてきている。

そんな「決断」のことを
「アー・ユー・ハッピー?」の中で
矢沢さんはこう表現してます。
「オヤジのツッパリ」と。
そう、もう普通のおじさんが
決断しなければいけなくなっている。

そんなとき、矢沢さんは
「ツッパリ」という言葉で、
おい、決断しろよ、と呼びかけてる。

いま、企業不祥事、増えていますよね。
あれ、やっぱり
現場の人間が、自分で「決断しなかった」つけ、
だと思うんです。
会社の論理を優先させて、
ひととして決断しなかった。
だから、あとで、つけが回ってくる。

ぼくも含め、普通のサラリーマンが
「決断」しなきゃいけない現代、
矢沢さんの言葉、そしてなにより歌は、
はげみになるし、指針になる、と思います。

ほぼ日 矢沢さんは、
『アー・ユー・ハッピー?』の中で、
「考えてみて。
 この本を読んでいる人間は、
 ただの観客か、予想屋か?
 オレをウォッチしているだけの人生なのか。
 ちがう。
 だれもみんな、そいつそいつで、
 生きている場所での、主人公なんだ」
と言ったり、
「『ぼくには、できません。
  永ちゃんを見ているだけでいいです』
 というのは、うれしくもなんともない、
 そんなのうそだよ。
 だって、さみしいじゃない」
と語ったりと、くりかえし、
あなたはどうですか、と聞いています。
自立についての本でもあると思うんですが。

柳瀬 「オレの話を聞いているときには、
 観客席かもしれないけれど、
 そいつのストーリーにおいては、そいつは主役だ」
という矢沢さんのあとがきは、ぼくとしても、
本の最後に、ぜひ入れていただきたいものでした。
『アー・ユー・ハッピー?』の中で、
矢沢さんは、一回も説教はしていないんです。
ただ、「オレはこう考える」と言っているだけです。
そこがすばらしいと思います。

『成りあがり』を読んで育った人の中に
作家や漫画家やミュージシャンが多いように、
『アー・ユー・ハッピー?』を
読んだ人の中から、将来、
「あれが一本立ちのきっかけになりました」
なんていう人が出てくるならば、
それほどうれしいことはないなぁ、と思います。



(※次回を、お楽しみに! 感想はこちらまでどうぞ!)

2002-08-02-FRI


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