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矢沢永吉、50代の走り方。

第17回 「年上の人から学ぶ」ということ。








かんじんなのは手前の足で立つことなんだ。

マッサージしてくれたあのおばちゃんのように。
七十歳すぎても草刈りして市役所から日当をもらって、
それでオレを育ててくれたおばあちゃんのように。

普通に考えたら、貧乏だとかへちまだとか
言われるのかもしれないけれど、
どっちが幸せだっていえば、
オレはもう答えは見えてると思うよ。

依存しないで生きてるほうが、
こっちのほうが、人間のモトでしょう。



      『アー・ユー・ハッピー?』(日経BP社)より





(※「ほぼ日」糸井重里へのインタビューです)


ほぼ日 すこし前に、
矢沢さんと糸井さんの年代について、
「自分たちが20代の頃には、
 オトナと子どもとの間が断絶していて、
 見本にしたいオトナが、
 見えない構造になっていた」
と言っていたのが、興味深かったです。

「はぐれていない人は、
 みんな、かっこわるいように見えちゃった」

「今の社会を作っている人たちに、
 自分たちの見本はないというような雰囲気が、
 時代の基調として、流れていた」

「自分たちは、戦争が終わってすぐに生まれて、
 オトナたちは、負けた時代を原点にしていた。
 親の言ってる通りは、間違いだったな、
 という自信のなさみたいなものを残したまま、
 ぼくらの親は、戦後生まれの人の教育をした」

お手本にしたいオトナがいなかったところから、
矢沢さんや糸井さんたちが、どうやってきたかを、
すこし、詳しく聞いてみたいと思います。

糸井 そういう、前の世代と
断絶した思いがあったからこそ、多くの人が
「道は、自分で探さなきゃな」と思ったり、
すねて社会からはずれてみたりしたんだと思う。

ほぼ日 矢沢さんは、
ロックというジャンルがマイナーだった頃から
ライブをしていたせいか、
「自分の道を探していくうちに、
 何回か行くと、人が踏み出した跡がつく。
 けもの道じゃないな、ヤザワ道ができる。
 その道を、オレからあとのやつらが通ればいい。
 どうぞ、オレは知らん。
 歩きたいやつは歩けばって感じ」
と言っています。
自分で開拓してるっていう気持ちは、
あっただろうなぁと思います。

糸井 永ちゃんにしても、
親父の代では負けて、自分も序盤戦で負けた、
と、そういうところから、スタートしてますよね。
親に対しての気持ちも、
「オッサン、根性なかったね」とか言うし。

ただ、学ぶ人が
まるっきりいなかったかというと、
永ちゃんの場合は、そうではなかった。
親を飛びこえて、おばあちゃんがいて。
おばあちゃんは、たくさんじゃないけれども、
「変わらない大切なこと」を教えてくれていた。

ぼくは、親の世代だとか
社会を正面から構成している人たちから
自分が学んでこなかったがゆえに、
若いころ、変わったことだとか
酔狂な振るまいをすることをよしとしてた。

その弱い土台を、そんなに好きではないです。
「戯作者になる」「身を窶(やつ)している」
そんな風な表現をよしとしていたのは、
ぼくの「ねじれ」だったと思うんです。

そういう育ちかたをすると、どうなるか。
ちょっと、やけになるんです。
自分の命の値段が安くなる。
絵にかいたように、土方のバイトをして、
「ひとりの何でもない人として過ごすんだ」
そんな、ほんとうに学生さんあがりの
坊ちゃんが考えるようなことを実行してた。

頭でっかちで肉体労働をしているだけだから、
土方やってると本を読みたくなったり、
土方が、自分の身の丈に合わない気がしたり。

ぼくは大学を辞めて肉体労働をして、
そのあと、今の職業になるわけですけども、
今の職業になったあとにも、
何を規範にするかについては、
ほとんど考えを整理できないまま、
ずいぶん長く生きてきたような気がします。

自分の親は、自信を持っていなかった。
反発するに足るだけの規範を教えてくれなかった。
この時代に生きた他の人たちも、
ひょっとしたら、そんな半端ななかで
いろいろなことを考えてきたのかもしれないです。


自分の場合は、その結果、
「歴史を断ち切ったカッコつけ」
になったりしました。

田舎は恥ずかしいと思うし、
生活にまつわることが、恥ずかしく思える。

地に足のついたものは、みんな恥ずかしくて、
まるで空から勝手に
ふってきたような存在でいたかったんです。
でも、人生って、そういうものじゃないですよね。

そもそも、地に足のついた人生が恥ずかしかったし、
ずっと斜めに走ってきたような気がします。

今でもねじれているとは思いますけれど、
でも、まっすぐなものがかっこいいなとは思います。

そういうことを考えると、
いま自分の同年代で、
ふつうに会社づとめをしてるような人が
自分の若いころについて
「あの時代はどうだった」とか言いたがるのは、
ほんと、なんなんだろうなぁ、と感じます。
「そのころに、語るべき自分なんかあったか?」
そう言いたいぐらいなんですよ。

ほぼ日 そう言いたいのは、なぜですか?
糸井 自分のことをふりかえっても、
学生運動にすこしだけ関わって、
逮捕されたり身体が痛めつけられたり、
そんな中で殉教者のような気持ちにはなった。

強くなっていくような気にはなったけれども、
なんか、自分の背丈に
ぜんぜん合わないことをしているから、
「これは、自分じゃないよ……」
と思っていましたもの。
世間知らずが、飛びこんだだけで。

だいたい、やってることが、
「何か、ぜひやりたいことを、
 いちばんよくやるためにはどうする?」
というのではなかったですからね。

当時の学生運動は、体当たりをして、
とにかく実感を得るだけの行動なんだから、
それはもう、グロテスクなものだし、
死ぬまでやるようなものじゃなかったと思う。

シンボリックな行動でしかなかったから、
リアルじゃなくて……妙なことをしていたわけです。

今ごろになって学ぶのは、
ずっと年齢が上の人たちから、ですよね。

永ちゃんみたいに、
おじいちゃんおばあちゃんたちに育てられた
自分たちだからかなぁ?

例えば、今思いつく人として、
永田農法の永田さんだとか、すごくおもしろいよ。
ひととおり、熱いことをしおわったんですよね。
国の援助をやまほどもらって開発して失敗したとか、
そういう経験があるから、焦らない。

やる気はもちろんあるけれども、
「できることしかできないんだ」
という諦観が、あるんですよね。
「ダメなものは、ダメなんだ」
というオトナな感じは、
なかなか出せることじゃない。かっこいい。

ふつうなら、
「もっとやればできるんじゃないか」
という、余計なあがきをしてしまいますから。

巨人の元監督の藤田さんとお話をしても、
ちょっとしたことしか言わないその中に、
どれだけすごい内容が入っているのかを、
いつも感じさせられます。
わかっている上での諦観って、すばらしいです。

思えば、今、「ほぼ日」のようなところで、
いろいろな人のことをほじくりだしてきては、
「この人も、いいんだよねぇ」
なんて言っているのは、きっと、
自分のしてもらえなかったことを、
ほかの人にしたがっているんじゃないでしょうか。

いろんな人の経験を聞きながら、
「そことそこは、大事さは、今も変わらないな」
「あそことあれは、変えたほうがいいんだ」
そんな風に、時代とともに
変わるものと変わらないものについての考えを、
今は、人に譲りたくて、仕方がないというか。



(※糸井重里への取材は、今回でいったんおわりです。
  次回からは、新しい切り口で「53」をお届けです!)

2002-08-09-FRI


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