岡田 |
ぼくは、矢沢さんに関しては、
「わきまえたい」という気持ちがあるんです。
昔からそうですし、今でもそれは強く持ってます。
ぼくは幸運にも、ご本人に
お会いすることができたんですけど、
ほんとうに会いたい、と言うよりは……
いや、もちろん、矢沢さんのことは、
ものすごく、好きなんです。
|
糸井 |
とても尊敬している人に対して、
「会わないままでも、もう充分だ」
って思う気持ちは、とてもよくわかりますよ。
|
岡田 |
「ぼくにとっては、もう、いつも側にいる」
もう、そんな感じだったんです。
『成りあがり』、何十回読んだか、わからないし、
ぜんぶ血や肉になっている感じがありましたから。
糸井さんが『成りあがり』のあとがきで
「道は、たったひとつではない。
自分に合った道を見つけて、成りあがれ!
自分が、まず、やんなよ。
色々と、ノーガキをたれる前に」
そんな風に書いてくださっていたのを読んで、
ぼくはもう、自分の道を行くつもりでした。
だから、自分で稼いで、
時間を作れるようになったら、好きなだけ、
コンサートに行けるようにもなるだろうし……。
そう思って、仕事をしていましたので、
ご本人に会わなくても、いつも
神様みたいに思っている存在ですから。
実際、この20何年は、1年を除いて、
矢沢さんのコンサートは、毎年1回は行ってます。
行けなかったのは、調理場の先輩にいじわるされて
どうしても休みを取れなかった時だけ、です。
チケット取ってたのに、その時には行けなくて、
悔しくて……何のコンサートだったかも、
よく覚えてる。
だいたい、独立する前の調理場では、
休みは月曜日しかなかったですから、
矢沢さんのツアーの日程が発表されると、
月曜日にやっている会場を探すんですよ。
地元の大阪で月曜だったらラッキーだけど、
月曜以外には、仕事を
休ませてくれないところで働いてたから、
大阪がない場合は、地方でもどこでも、
クルマをすっ飛ばして、行ってました。
気持ちが盛りあがりすぎて
富山に、クルマで1週間はやく来ちゃって
ガックリしたこともあります。
「こんな遠いところまで来たのに、恥ずかしい!」
……まぁ、その次の週、やっぱり行きましたけど。
|
糸井 |
(笑)ともだちと行くの?
|
岡田 |
ぼくは、集まらないほうですね。
群れないです。群れるのは、苦手。
こうやって、いま自分で組織は作れますし、
自分で役割を、自分で作っているぶんには
すごくおもしろいんですけど、
どこかの何かの協会とか社交界とかには、
行ったこともないですし、知らないというか。
もともと、ぼくが
今やっていることというのは、
日本のレストラン業界のなかでは、
かなり異質なことなんです。
10年足らずで、
100億からの企業を作るというのは、
ものすごいスピードなんですが、ましてや、
レストランは、初期投資がものすごくかかるので、
ふつう、そんなにお金は、かけられないんです。
大企業のやってるレストランには
お金がかかっていますけれど、もちろん、
100億ぐらいになるまで手を出すところは、
ウチのような規模では、他にないわけです。
しかも、ファミリーレストランのような
画一的なものを作ってきたわけではなくて、
ぼくは、40店、ほとんどすべて
バラバラのものを作ってきましたから。
年齢的にも、業界の中では若いほうです。
注目されたのが、30歳ぐらい。
今37歳ですけど、今でも異常に若いんです。
ほとんどのレストランオーナーは、50代以上です。
|
糸井 |
なるほど。
つまり、一匹狼で、やってきたんだね。
ご自分のお店をはじめてから、何年ぐらいですか?
|
岡田 |
この9月14日で、9年になります。
|
糸井 |
独立してお店を開く前、
調理師をやっている時というのは、
貯金なんか、できる状態じゃなかったのですか?
|
岡田 |
ありえなかった、です。
アルバイトのほうが、高かったぐらい。
ぼくら、16時間労働ぐらいで、
はじめは月8万円ぐらいからのスタートでした。
20年前ぐらいの話ですけど。
そこから、がんばりまして、
28歳で独立するんですけれども、
見習いの頃から勤めあげていたお店で
もらっていた給料は、40万足らずでした。
いちおう、責任者にはなってましたし、
認められてそこまではいったのですが、
でも、「そのぐらいのもの」でした。
だから貯金なんてさらさらなくて、
お店をはじめるためには、いろんなところから
借金して、お金をほんとに、かき集めました。
ぼくはそれまで、
ぜんぜん借金なんてしない人生だったんです。
親がそういう人で、反面教師にしてましたから。
ともかく、そうやってはじめたお店は、
大阪で、記録的に流行りました。
|
糸井 |
どういう場所ではじめたんですか?
|
岡田 |
心斎橋です。
一等地の中では、3流のところ。
繁華街のミナミに位置はしているのですが、
すこしはずれたところです。
中心地からは、歩いて行けるところ。
|
糸井 |
岡田さんって、もともと、
小さいころはどういう人でしたか?
|
岡田 |
ぼくは、エネルギーを発散するのが好きで、
発散できるなら何でもよかった……。
ただ、「何でもよかった」とは言っても、
ぼくには、あんまり選択枠がなかったです。
野球、暴走族、料理、経営。
いろいろやりましたが、
それのどこに割いたエネルギーも、
ぼくの中では、なんら変わりがないんです。
とにかく、「発散させること」が、
ぼくにとって、いちばんうれしいことですから。
ぼくの生まれ育った家庭は、
オヤジが不動産屋で、おふくろはクリスチャン。
「……って、どんなやねん!」という家族でした。
いつもケンカでした。いつも、金のことでケンカ。
それで、ともだちの家に遊びに行ったりすると、
自分の部屋よりも確実に広かったりする……。
郊外の、団地に住んでいたんだけど、
「なんで、こんなに差があるの?」
常にそう、思わされていましたから。
いま思えば、たいした差は、ないんですけどね。
ウチがもめてたから、ともだちが幸せに見えた。
当時、ものすごいお金持ちに見えた
ともだちの家が、まだ商売やっているので、
こないだ、チラッと聞いてみたんです。
「おまえんとこの会社、年商いくら?」
「1億円ぐらい」
ガーンと来ました。
そんなに、少なかったのか、って。
ぼくが目指したのは、
100億とか500億とか、
わけのわからない世界だったものですから。
でも当時のぼくは、
わけのわからないまま、モメてる原因を、
「どうやらこれは、うちが金がないからだ!」
と決めつけた……早く社会に出て、稼ぎたい、と。
まだ『成りあがり』を読む前ですけど、
子どもごころに、新聞に載っていた
「野球選手・契約金3000万」と見かけて、
「あ、じゃあこれだ!」って思いまして。
一生懸命、やりはじめたんですけれど。
中学校で野球をやりはじめて、
すぐ背番号をもらった。
中学3年の時には、ぼく、
スピードガンで140キロ行ってましたから。
だから、そうそう負けなかったですし、
いろんな高校から、スカウトが来たんですよ。
ここからが、
オレのセコい話がはじまるんですけど。
たしかに、スカウトはたくさん来たんです。
PL学園、中京高校……。
その中に、鳥取県の高校があったんです。
倉吉北高校。
ぼくにとっては、
甲子園はプロになるための登竜門ですから、
行ければなんでもよかったんですよ。目立てばいい。
で、調べてみたら、当時、
鳥取県の学校がいちばん少ないんですよ。20校。
「決めた!」すぐに、そこに入りました。
聞くと、特待生で、入学金も授業料も免除らしい。
「……イイじゃないですか!」行った。
入りまして、そのままエリート街道をひた走る、
と思っていたら、これがえらいどんでん返しで。
ひどい学校だった。
シゴキがひどくて、ほとんどリンチで、
暴力沙汰として、新聞で大問題になりました。
ものすごい事件だった……
学校が、高校野球、出場停止の処分ですよ。
計算したのが裏目に出ました。
ぼくは、中学3年のころから、
かなり盛りあがっていましたから、
もう、目の前が、真っ暗になった。
ぼくの近所のバッティングセンターで、
中学の頃から140キロ以上出していた人たちは、
みんなプロの選手になりましたからね。
それぐらい、自分は、プロに近いと思ってた。
高校に入ったら、なんだか
シゴキも無茶苦茶だけど、耐えてたわけです。
「ケツバット」って、全開で振り抜きますから。
あれ、無茶苦茶。
「人間って、人間をこんな力で叩けるんだ?」
痛い、とかじゃないです。
お尻の奥、何だか腸みたいなところが痛い。
もっとヒドイやつは、ランニングケツバット。
これ、死にますよ、ヘタしたら。
スクワット2000回やれ、とか言われたり、
それをできなかったら蹴り飛ばされる。
「こんなことするのか!野球の世界は」って思った。
ケツバットがズレて、太腿を叩いて、
下半身不髄になっちゃったやつが出まして……。
それで、「甲子園出場停止」です。
プロ野球選手になるんだ、だとか、
そんなことさえも、思えないぐらいでした。
考えるヒマがなかったと思う。
当時、全国1位でシゴキがキツかった、らしいです。
いろんな高校で野球やってるやつで集まって
シゴキのひどさ自慢をしてみると、
「あ、どうやらウチが、いちばんだったな」って。
出場停止になったのは、2年生に入る前です。
ぜんぶ、パアですよ。
もう、対外試合は、できなくなった。
プロ野球への道も、契約金3000万も、パア。
高野連の取り決めとかをいろいろ調べてみても、
一回、高野連に登録されちゃった選手は、
転校して対外試合に出ることはできないんです。
そうでもしないと、トレードが起きてしまうから。
ぼくは、登録されちゃってました。だから、もう無理。
絶対に甲子園には出られなくなった。
そこで、ふたつの道の選択を迫られました。
野球部に、もしも残るならいまの条件でいい。
だけど、もし野球部やめるなら、
授業料とか入学金とか払ってね、っていう。
「やめろ」「やめても、いいよ?」
遠まわしに、そう言っているわけです。
ぼくは「やめる」を選択しました。帰る。
プロ野球選手になれないなら、鳥取に用はない。
大阪の公立高校を受け直しまして、
1年遅れで、入り直しました。
プロ野球選手にはなれないわけですし、
大阪の家に帰ったら、現実が待っている。
両親は、前とおなじように毎日モメているわけです。
これは、あぶない状況ですよ。
エネルギーって、
病気みたいなもんだと思います。
何かで発散しないと、ヤバイんですよ。
おさえつけておくことが、できなくなる。
それまで、毎日毎日、
「絶対に三振取ってやる!」
「ホームラン打ってやる!」
そんなことばっかりやってましたし、
ロードワークで毎日10キロ走らされていたり、
腕立て伏せを、毎日100回とか200回とか、
平気でやっていた人間が、明日から、
それがないっていう状態になるわけでしょう?
これは、あぶないです。
やることが、ほんとに、なくて。
それまで坊主だったから、
ちょっと髪の毛を伸ばしてみたくなる。
伸ばしたら、パーマをあてたりソリコミ入れたりする。
それに、前から、ケンカは大好きだったんです。
エネルギーの発散場所ですから……。
だったら、自然にそういう道に行きますよね。
暴走族に。
|
糸井 |
うん。自然な流れ、ですねぇ。
|