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矢沢永吉、50代の走り方。

第29回 『成りあがり』が、基準。








「何だかしらないけど、やれるからやってる」
って感じ。オレ、そういうのは嫌いなんだよ。

まわりにキャーキャーいわれて。
金も、そんなにはないけど
サラリーマンやってるよりはメシ食えるし。
それにドップリつかったらダメなんだ。

オレは、自分をとりまいてる社会の仕組みを、
わかろうわかろうとしてた。

前に進むためには、どうしたらいいか。
いろんなことを知ろうとしたし、わかってきてた。


        『成りあがり』(矢沢永吉・角川書店)より







(※前回にひきつづき、「ケンズダイニング」や
  「ちゃんと」「橙家」などを経営されている
  岡田賢一郎さんへの糸井重里によるインタビューを
  おとどけいたします。どうぞお楽しみくださいませ!)



【岡田賢一郎さんの談話・その2】


岡田 プロ野球選手になる夢が、
何にもなくなって、大阪に帰ってきたわけです。
ケンカ大好きだし、バイクはおもしろい。
まぁ、アルバイトも、やりはじめますよね。

ぼくは、オカズがちょっとあれば、
ごはん何杯でも食べれる、
という特技を持っていたわけです。
実際、そのころ、どんぶり10杯とか、
食べてましたからね……だったら、
まかないを食べさせてくれるところで
バイトするのがいい、と思っていました。

はじめは、居酒屋。
ごはんは何杯でも食べていいっていうところ。
そこに半年ぐらいアルバイトしたころに、
ともだちのおばちゃんが勤めている焼肉屋で
洗い場を募集してるって言うんです。
「週に1回、焼肉食べさせてくれるって」
「じゃあ、そこ行こう!」

アルバイトは一生懸命やってましたけど、
はじめは料理人になろうとは思わなかったです。
調理場の料理人という人間が、好きじゃなかった。

ぼくの人生、反面教師ばっかりなんですけど、
その焼肉屋が、これがまた、いいかげんな店で。


大阪の堺の端のほうにあって、
バスが1時間に1本しか通らないような場所。
ぼくはバイクに乗って通ってたけど、
働いてる人はみんな、やる気なかったですよ。
オーナー夫婦は、ご両親に
援助してもらってお店をやってたけれど、
どうにもこうにも頑張らない人で、
「いつか、化けよう!」なんて思ってない。

それで、料理人はと言うと、
競馬の中継をイヤホンで聴きながら
厨房で仕事をしている、みたいな……。


いまの料理人は、そんなことでは勤まりませんが、
当時、料理人って言ったら、けっこう
どうしようもない人も多かったんです。
料理の鉄人とか言われたり、尊敬されるのは、
料理の世界の全体の1%にも満たなかったと思う。
もちろん、ぼくもどうしようもない人だったし。

糸井 そういう時代だったんですねぇ。
岡田 当時、飲食店業は
税金をごまかすトップの仕事だったですし、
金融機関にもつまはじきにされていましたし、
そうされても仕方がないぐらいの体質があった。

そりゃ、職人ですから、
おいしいものを食べさせるという
気持ちはあるでしょうけれども、
それ以外に、社会人としてどうかと言うと、
これはもう……包丁一本サラシに巻いての世界。
「何をやっていたっていい」っていうか。

そういう態度は、尊敬できなかった。
暴走族のぼくが言うのも、何なんですけれど、
「こんなオトナには、なりたくねぇ!」と思ってた。
やっぱり、矢沢さんは、そうじゃなかったから。

中学生のころに読んで以来、
野球をやめはしましたけれど、
常に、何をするにも、『成りあがり』に
書いてあったことは、頭に浮かぶんですよ。
それこそ、女の人の愛しかたであったりとか、
困った時の自分への励まし方も含めて、です。

矢沢さんの生いたちと自分の生いたちにも
似たようなところがありましたので、
すごく共感できました。何回も何回も読んで……。

子どもが出会うオトナというのは、
学校の先生とか親とか親戚しかいなくって、
みんな、おさえつけるようなことばかり言う。
でも、矢沢さんはそうじゃなかった。

「こんなオトナで、かっこよくて、
 オヤジよりも金持ちなんだから、いいじゃん!」
そんなところから入ったんですけど、
ぼくにとっての「オトナ」の見方の基準は、
ほんとに、『成りあがり』が作ってくれたと思います。

ですから、そういうぼくから見ると、
料理人でありながら、
店のビールを盗んで飲んでいたり、
肉を持って帰っちゃったりしてる人たちは、
もう、「なにしてんの?」って言うか。

高校生のガキではあったけど、遠目で見てても、
「もったいないよ!」と思っていました。

俺なんてもう、野球の夢を
なくしちゃってどうしようもないのに、
きちんと料理の技術を持っている人が、
いいかげんなことをしている。なんで?
両親からお店を持たせてもらってるのに
一生懸命やらない人もいる。なんで?

結局、その料理人は、
お店のものを盗んでいるのがバレて
やめさせられたんですけど。

ぼくはそのころには、高校も卒業していて、
勤めるところがなかったので、
そのまま、その焼肉屋で働いていました。
で、ぼくは何にも料理できないし、
料理人は、焼肉屋からいなくなった。
だけどオーナーは誰も
料理人を雇おうとしないんです。
「まぁ、とりあえず、
 今まで料理をやってたやつがいなくなったから、
 おまえ、かわりをやってみてよ」
……そんなん、無茶苦茶ですよ。
俺、店をつぶすの、イヤじゃないですか。

そんな、いいかげんなまかされかたが、
当時のぼくにとっては、
「なんでだよ!」と思うことであったと同時に、
何かのチャンスだとも、感じられたんでしょうね。
猛勉強しましたよ。誰も料理教えてくれないし。

焼肉屋に適した韓国料理の本なんて、
当時ぜんぜん売ってませんでしたから、
フレンチの三國さんの本なんか買ってきまして。
何か、読んだらこれが、いろいろと
かっこいいこと、書いてあるんですよ。
ぼくらは、ロース、ミノ、カルビの世界なのに、
あっち、フレンチ。ぜんぜん雰囲気が違う。

なんでこんなに差があるんだろう?
「……あ、わかった、俺がへたくそなんや!」

これ、間違ってるんですよ。
「へただから」じゃなくて、ほんとは、
仕事のジャンルがぜんぜん違うだけなんですけど、
またこれを、誰もとめてくれる人がいなかった。
「仕事の種類が違うんだよ」
なんて的確なことを言う人はいなかったから、
とにかく、一生懸命やったんですよ。

給料は、多くもなかったけれど、
ほとんどが、料理の勉強代に消えましたね。
料理本も買いますし、いろいろ食べにいきました。

フレンチ。
うちの岡田家からしたら、
フレンチに食いに行ったことのあるヤツなんて、
誰もいないわけですよ。

で、行くにはスーツを買わなくちゃならない。
ネクタイを締めなきゃいけない。ぜんぶ勉強代。
でも、おもしろかったなぁ。
何にも知らないから、ぜんぶ勉強できる。
すべてが新鮮でした。

そのあたりからのしばらくの時期は、
よく考えたら、働いたことしか覚えてないです。

料理を食べにいったりして勉強する以外は、
だいたい、毎日16時間ぐらいは、働いてた。
下ごしらえ、業者からの仕入れ、ぜんぶ自分です。
ぼく以外に、それをやる人がいないんですもの。

毎日毎日、料理のことばっかり考えて、
あとで料理の大会で日本一になる、オリジナルの
「キムチの王様」なんてメニューもできたり……。
つまり、野球とか暴走族とかが終わったあとに
エネルギーをぜんぶ費やすことのできる場所が、
ついに見つかったんです。
そうなったら、もう、やりますよ。
根性とエネルギーだけは、並大抵じゃなかったから。

一生懸命やって、心をこめて、
お店の売りあげは、ぼくが入った当時は
1か月300万円ぐらいでしたが、それが
4年ちょっとで、1200万円にまで伸びた。

「バスが1時間1本の土地に、
 あんなにみんなが来てくれたんだよなぁ」
これは今でも、ぼくの経営の支えになってます。

通りにあったから入ろうというお店ではなくて、
「あそこ、いいらしいから、行ってみようよ」
というお店に成長させることができた。
しかも、いいかげんだったオーナーも少し変わって、
内装をきれいにしてくれたし、お皿も買ってくれる。
スタッフもみんな、本気になってくれたんですよ。
みんなが協力をしてくれるようになっていた。

糸井 なんか、ワクワクするなぁ。
たのしかったでしょうねぇ、その時代。
「自分がどんどん通用していく感じ」が。

客が増えていったり、
そのうれしそうな顔を見たり、
だんだんよろこびが深まっていくと言うか。
現場スタートの強みを、ぜんぶ持っていますね。

岡田 ぼくは、実地でいっぱい勉強するんです。
『成りあがり』の「ナメられちゃいけない」という
あの言葉があると、どこにでも出ていけるんですよ。

ナメられちゃいけない。わからないことは勉強する。
たとえば、ぼくが料理人や経営者として
成功した原因というのには、「話せる」というのが
ものすごくあると思うんですけれども、
これも、はじめから話せたわけじゃなかった。
だから、ひとつずつ勉強していったんです。

一緒にやっている仲間と、どう話していくか。
なぜ、今、こういう仕事をしているのか。
自分は、どういうことを考えているのか。
それを伝える、これはいちばん大切ですよね。
いまでも、それが会社を支えていると思います。

いま、こうやって経営者をしていますと、
取引先ときちんと話したり、
金融関係と話したりするわけですけれども……
自分のやりたいことを、
きちんとした言葉で話せないと、お金は出てこない。

話すことにしても、
「やる気のない焼肉屋」という、
ブランドが何もないところからスタートして、
いろんな人の信頼を得なければいけなかった
ことで、
学んだことなんだと思います。

コミュニケーションは、ものすごく大切です。

ほんとうに思ったことを、伝えるだけですし、
もちろん、伝えるという以前に、
マジで生きないと何にもならないのですが、
それを表現するということも、仕事ですよね。

糸井 なるほどなぁ。
そういうところも、永ちゃんに似ていますね。
永ちゃんも、音楽家の権利やビジネスについて、
かなり真剣に考えているし、スタッフに対しては、
常にものすごく明確に、意志を伝えていますもの。

焼肉屋がうまくいったあとの
岡田さんは、どうなったんでしょうか?
なんか、ハラハラドキドキするわ。

岡田 それから、すぐ独立しちゃいました。
細かいアルバイトをしたことはありましたが、
ほぼ、焼肉屋しか勤めていない状態での独立でした。

なんで独立しなければいけなくなったかの
話をしなきゃいけないんですけど……
お店がものすごく売れて、
ぼく、「天狗」になっちゃったんです。
めちゃくちゃ、天狗になりました。イヤってくらい。

まわりにいたやつら、イヤだったでしょうねぇ。
「誰もやる気なかったやろ? やったの俺やん!」
料理人として一番になれるフィールドにいないのに
そんなことばかり思っていたから、荒れてもいた。

料理コンテストに、
焼肉屋なんて混ぜてくれるはずがないし、
ホテルやフレンチや和食とかと自分の料理を
比べようが、ないわけですよ……それが歯がゆくて。

当時は、怒ったらいつも、
「吉兆の料理人呼んでこい!俺と勝負させろ!
 俺のほうが、ぜったいにうまいもん作る!!!」

そんなことを言っていました。無茶苦茶ですよ。

糸井 あぁ、それは……。
「天狗になっている」と同時に、
きっと、とても悲しかったんだね。

岡田 そうなんです。
「このまま行ったら、認められないんじゃないか?」
という思いがどこかであって、吠えていた。

吠えて吠えて吠えまくっていて……そうなると、
ようやく協力をしてくれたオーナーやスタッフも、
もともとふつうの人ですから、興醒めですよね。


「こんなやつとは、やってられない」
「じゃあ、やめてやらぁ!」

店、出たんです。
その時は、若くてわからなかった。
「すぐに店の一軒でもやりはじめて、
 すぐに売りまくってやる」と思っていました。

でも、世の中のことを、
何もわからないで出たわけで……
いろんな現実を、お店を出て、はじめて知りました。



(※つづきます。感想はpostman@1101.comまで!)

2002-09-06-FRI


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