おっきくて、重くて、そして愛おしい
『MOTHER3』のカートリッジを手のひらにのせてみる。
とてもちっちゃくて軽い。
耳元で振ってみると、カタカタ小さな音がする。
もしもタイムマシンに乗ったポーキーが、
この時代に立ち寄ってみたら、と夢想する。
ポーキーはきっと嫌がると思うけど、
なんとかスーパーファミコン版の『MOTHER2』が発売された
1994年に連れていってもらおう。
そして、MOTHERファンたちに向かって、
このカートリッジをかざしながら、こう叫ぶのだ。
「今度の『MOTHER3』は、12年後に携帯ゲーム機で出るんだよ!」
もちろん、誰も信じてくれない。
その場に、もし糸井さんがいたとしても、
「ばっかだねえ」と楽しそうに笑って、無視するだろう。
そもそも『M2』の続編をつくるのに12年もかかるわけがないし、
当時のゲームボーイは、まだモノクロだったのだ。
そこで、嫌がるポーキーを説得して、
6年後の2000年に連れていってもらう。
『MOTHER3』の「開発中止」の座談会が開かれた、お盆の時期だ。
もともと、『MOTHER3』は
スーパーファミコンのカセットで出る予定だった。
その後、ごっついフロッピーディスクのような
64DDのソフトとして出ることになり、
最後にはN64の重くておっきなカセットに変更された。
そのようにメディアは変わっても、僕らMOTHERファンは、
『3』で遊べる日が必ずやってくると信じて、辛抱強く待ち続けた。
そんななかでの悲しすぎる発表。
糸井さんと、宮本さん、そして岩田さんの3人が
2000年のお盆に集まり、
「開発中止」の座談会を行ったのだ。
それは、『MOTHER3』が永遠に遊べなくなることを意味していた。
その報を聞いたMOTHERファンのある者は怒り、
ある者は呆然とし、ある者は嘆き悲しみ、そして沈黙した。
落胆したのはファンだけでない。
N64版の開発に関わった人たちもまた、
心のなかに大きなキズを負った。
そんな彼らに向かって、
「6年後にはGBアドバンスで!」って言ったところで、
バカげた妄言にしか聞こえなかっただろう。
おっきなN64カセットでも完成させることができなかった
『MOTHER3』が、携帯ゲーム機で遊べるようになるなんて、
6年前は信じがたいことだったのだ。
しかも、GBアドバンスが発売されるのは、その1年後のことだし。
2000年のお盆以降、『MOTHER3』は幻のソフトになった。
いつまでもくよくよしても何もはじまらない。
関係者にとっても、ゲーム雑誌を編集するぼくにとっても、
『MOTHER3』は忘れてしまいたい存在になっていった。
ところが、忘れなかった人たちがいた。
その人たちが『MOTHER3』への情熱を再燃させることによって、
2006年の春、ゲームは完成した。
ゲームソフトの続編が12年後に発売されるなんて異例のことだし、
ましてや開発中止になったソフトが、発売されるなんて、
これはもう奇跡だといっていい。
でも『MOTHER3』のカートリッジが手元に届いたとき、
ぼくは手放しで喜べなかった。
ずっと恋いこがれていた女性に、
12年ぶりに再会するような、期待と不安が入り交じった心境。
このまま会わないほうがシアワセなんじゃないか…。
だからぼくは、おそるおそる『MOTHER3』の冒険をはじめた。
でも、遊びはじめて、数分もたたないうちに
「これ、MOTHERじゃん!」と
心のなかではじけるように叫んでいた自分がいた。
登場人物も、冒険の舞台も、サウンドも、
これまでのシリーズとは異なるけれど、
ずっと首を長くして待ち望んでいたMOTHERの世界が、
そこにはあった。
ラストバトルでは画面が見えなくなるほど泣いた。
ちっぽけなカートリッジには、
糸井さんたちが紡ぎ出したすばらしい物語が
たっぷり詰まっていた。
『MOTHER3』が発売されてから、
「すばらしいソフトをつくってくれた、
糸井さんや開発者のみなさん、ありがとう!」といった
読者のメッセージが、編集部にたくさん届いた。
ぼくも同じ気持ちだ。
幻のソフトだった『MOTHER3』を復活させるようなことは、
並大抵の努力ではできなかったことだと思う。
そしてそこには、関係者の人たちの、
奇妙で、おもしろくて、そしてせつない物語もたくさんあったはず。
そんなことに想いをはせると、このちっぽけなカートリッジが、
とてもおっきくて、重くて、
そして何よりも愛おしく感じてしまうのだ。
ところでポーキーって、人から頼まれたら、
けっこう断れないタイプだったりして?
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