From: 渡辺 謙
To: 糸井 重里
Subject: 梅のこと

鉄は熱いうちに打て、メールは思っているうちに書け・・・。
この週末はゆっくり物を考えられるので、
書けるうちに書いておきます。

「明日の記憶」を撮っている最中に、
佐伯はどんな風になるのだろう。
どんなところに行くのだろうと、「つと」かんがえていました。

体の様々な機能や記憶を失っていく。
現象としてだけじゃなく
何のために生き、何に向かっていくのかと・・・。
シーンのつなぎで、何気なく書斎の窓から表を見る佐伯、
という画があったのを覚えていますか?
あれを撮っている時、おぼろげに見えてきたことがありました。
もしかしたら、あの庭に立つ木の様な
存在になっていくのかと・・・。
木は喋りません。
いやもしかしたら、木の言葉で
何かを囁いているのかも知れません。
でも、僕には聞こえない。耳をすませてみても・・・。
奴なりに季節や温度、天気、辛さ、春の喜び、雨の恵み・・・
様々感じているに違いありません。
生きているのです。
動かなくても、そっと少しずつ枝を繁らせ、
地面で根っこをチビチビ伸ばしている。
優しいじゃありませんか。何かを与える優しさじゃなく、
優しく生きてる気がしません?

だったら、受け入れられるかもしれない。
この先待ち受けている過酷さも、絶望も・・・。
少しだけの喜びも、嬉しさも。そんな風に思いました。
だから、看護ホームに見学に行って、庭の外に広がる、
緑の田園風景やそこに吹く風を
体に受けた時、本当に心から思えたんです。
「ああ、ここに植え替えられるなら、
 かなり幸せな木になれるかも知れない」って。

随分前置きが長くなってしまいました。
梅の話をしたかったのです。
きっと梅君もそんな風に生を受け止めているのかなあと
思いました。
奴なりに、奴らしく、自分のペースでつぼみを膨らませ、
じんわりと花弁を広げる。
他者を圧倒する力も、綺麗さも誇示することなく、
優しくそこにいる。

僕が、こんなこと思えるようになったのは、
「負けたことがある」からじゃないような気がしています。

僕は17年前、生きるということに終わりがあると、
突然知らされました。
きっといつかは誰でも受け止める事実でしょう。
でも、僕はやはり早すぎました。
敗北から立ち上がり、もう一度何かに向かおうとしました。
当然のことでした。
そうしなければ生きるよすがが無かったのです。

でも、月日がたち様々僕を取り巻く環境が変化していきました。
どこにいても、どんな仕事をしていても、
誰と逢っていても、何を食っていても
僕はただ、そこにいればいいんだと思うようになってきました。
僕らしく、僕なりに・・・。

相当楽観的な奴ですよね、きっと。
おそらく17年経って、ようやく「負けるって悪くないなあ」と
思えるようになったんでしょうね。

勝ちと負けの間には、線が引かれます。
健康か病気か、若いか老いているか、金持ってるか無いか、
線を引くと幸せを実感するのかな?
僕の中で今、その線がにじんできています。
所々点線や消えているところもあります。
病気になり、そしてその後、家も、友人も
何もかも失くした時がありました。
線も見えない深い闇にしばらく息を潜めていました。
「立ち上がろう、勇気を振り絞って!!」
そんな風に思えないくらいの闇でした。

そして今、老眼鏡をかけながらこのメールを書いています。
少し痛い腰を労わりつつ、
バランス・ボールに乗りながら机を前に座っています。
一つ一つ自分の機能や所有物を失うことで、
「自分がそこに生きている」実感が
深くなっていったのかも知れません。
「どうやってその闇から脱出したんだ?」と
よく聞かれることがあります。
でも、そのことが大事なことではないのですね、きっと。
その闇に潜む間も、今も、おそらくこれからも僕はただ、
「生きて」いるんです。
勇気や、恐れや、ぬか喜びに惑わされること無く、
生きていたいなあ・・・。
梅みたいに。

少し女々しい(おっと凄い言葉かも)文章になってきました。
「つと」思っていることですので、終わりがありません。
負けるってことの答えになってないかもしれません。
なんたって「つと」ですから。
ではまた。

渡辺 謙

2006-04-06-THU



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