『明日の記憶』とつきあう。 堤幸彦監督との対談。 「これはぼくのデビュー作です」




第3回 

糸井 『明日の記憶』は、順撮り
(物語の進行に沿って撮影していくこと)
だったそうですけど、
それは、映画の仕上がりに
大きく影響したんじゃないでしょうか。
それはもう、大きいです。
順撮りでの撮影は、
「そうしなくてはならない」という
使命感のようなものが自分のなかにありました。
つまり、効率を重視するような
ふつうの撮影方法ではだめだろうと。
糸井 あああ、なるほど。
ということは、最初の台本の段階と、
できあがった映画はけっこう変わってるんですね。
そうですね。だいぶ変わってますね。
糸井 現場で変わっていくわけですね。
毎日、撮影前に監督と渡辺謙さんが
その日撮影する場面と向き合いながら
つくっていったという話もありましたが、
その都度、その都度、
それこそそのときの気持ちや
運のようなものも引き入れていったというか。
つまりその、偶然のようなことを
どんどん自分たちが引っ張り込んで、耕して、
偶然じゃないようにつくっていった。
そうだと思います。
ですから、俳優さんも
きちんとそういう方法を理解して
つきあってくれる人でないとだめだった。
‥‥いやぁ、その意味では
樋口さんはすごかったです(笑)。
糸井 はははははは。
樋口さんには、このあとあらためて
インタビューすることになっているんですけど。
現場に対して信頼があるから
憶えていったセリフが当日変わったとしても
「これは謙さんと監督が相談してこうなりました」
って言われると、もうそこで、
「はい!」ってなったって言うんですね。
そうですか(笑)。
樋口さん、つまり枝実子のセリフは
現場でもひじょうに苦労しました。
瞬間的な思いつきが大きく作用していて、
それがいい方向に転がって
「あ、いいセリフだな」って
自分でも思えたりするんですけど、
いま思うと、自分でほんとうに
そんなことを思いついたのかっていうような
偶然みたいなことがとても多くて。
糸井 それも、順撮りならでは。
そうですね。
樋口さんご自身が、順撮りすることによって
人物を少しずつ少しずつ
つくっていってくださっているから、
その樋口さんを見ていれば、
そのセリフがほんとうに
そのとき言えるかどうかということが
すぐにわかるんですよ。
糸井 あーーー、なるほど。
働いていた夫が発病して1年経って、
それまで家事をしていた自分が働きはじめた。
そのとき、言えること、言えないことを
ご自身のなかで自然に検討されているから。
糸井 うん、うん。
それはもう、顔見りゃわかるんですよ。
「あ、言えることなんだな」とか、
「言えないことなんだな」とか。
その顔色見つつ、関係も見つつで、
ちょっとずつ直していったりしました。
糸井 そうですよね。
なんて言うんだろ、小説とか、
活字のなかだけの物語だと、
「実際には、それ、言えねーよ!」
っていうセリフがいっぱいありますよね。
「言えないよ」っていう
セリフだらけにしちゃうと
それはそれで成立してしまうものなんですけど、
この映画のなかでは、
「ウソならウソでもいいから、
 言えるセリフにしてください」
っていう感じがありますよね。
ええ、そうですね。
糸井 それはもう、絶対にそうですよね。
なるほど、じゃあやっぱり
順撮りじゃないと、それは難しいですね。
もし、あれが順撮りじゃなかったら、
ああはなってない。
糸井 そうでしょうねぇ。
また、監督ご自身のなかでも
順撮りでつくったぶんだけ、
「なにをどうつくったか」っていう
気持ちがはっきりと残っているじゃないですか。
そうですね。
撮影したシーンを観ると、
あの時はどうだったかっていうのが
如実に思い出せるというか。
ぼくは、撮ったものを
すぐに忘れちゃうタイプなんですよ。
忘れるからすぐつぎのものがつくれるんですけど。
糸井 うん。
でも、この映画はほんと、忘れられない。
「忘れてしまう映画」だけど、
忘れられないものになった。
1カット、1カット、
ああ、あのとき、ああだったな、
あんなことを語り合ったなとか‥‥。
ほぼ全カット、
謙さんなり、樋口さんなり、
遠藤さんなり、ミッチーなりと
話し合いながらやってったんで、
いろんなことがもう、思い出せてしまって。
糸井 忘れる映画だけに、なにを忘れたかっていうのは、
覚えてないとつくれないですもんね。
そうなんですよ。

(つづきます!)

2006-04-14-FRI



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