こんにちは。
ほぼ日刊イトイ新聞の永田です。

糸井重里が書いた1年分の原稿から
印象的な「ことば」を
より抜いて1冊の本にまとめる。
その幸せな作業を今年もやらせていただきました。

すでに発表されていますが、
本のタイトルは
『あたまのなかにある公園。』。
装画を荒井良二さんに描きおろしていただき、
今年も、誇らしい本に仕上がりました。
すでに制作の全行程を終了し、
いまは、ひとりでも多くの人に、
読んでいただけますようにと願うばかりです。

この本の、くわしい説明は、
これから更新される販売ページをご覧いただくとして、
今日は、この本を編集しながら、ぼくが
「ああ、そうそう、こういうことだ」と感じた
糸井重里にまつわる発見のようなもの、を
勝手ながら書かせていただこうと思います。

いくぶん曖昧で、
ちょっとややこしいものになるかと思いますが、
少しのあいだ、おつき合いください。

この本の編集中、
作業工程でいえば中盤を過ぎたころ。

ある「ことば」をピックアップして、
本に掲載する原稿のかたちに削りだしたとき、
ぼくは、ああ、これが糸井重里のことばの
希有な部分なんだなぁ、とつくづく感じたのです。

それは、こういうことばでした。


そうとも言えるかもしれないけれど、
やっぱりちがうんだよなぁ。


糸井重里の生のことばに日々接し、
雑談を交わすことも日常的にあり、
書かれる原稿を毎日読んで、
さらに年に2度はすべての原稿を読み直すぼくは、
彼のことばに対して
かなりマニアックな立場にあります。

そのぼくが、あえて「その道に精通する先達」を気取り、
いまこのページを読んでいるお客さんを
勝手に自分の若き後輩ととらえて
下戸の我が身をさておきタチ悪くからむとすれば、
「ここに糸井重里のおもしろさがあンのよ〜」
ということになるのです。

ああ、まったくもってややこしい展開ですね。
もっとすいすい進めましょう。

上に挙げた糸井重里のことばは、
もともとは、以下のような構造の中にありました。


<主張A>

そうとも言えるかもしれないけれど、
やっぱりちがうんだよなぁ。

<主張B>


つまり、一般的には<主張A>である、
もしくは、私は<主張A>と思っていたけれど、
「そうとも言えるかもしれないけれど、
 やっぱりちがうんだよなぁ。」ということで、
ほんとうは、<主張B>なんです、と。

当たり前といえば当たり前ですが、
もともとの文章には
そういう流れがあったわけです。

そのような構造があるとき、
ふつうに考えれば、
筆者の要点は<主張B>にあるといっていいでしょう。
もしくは、「陥りがちな誤解」という面を重んじれば、
書き手の要点は「<主張A>ではない」
ということになるでしょう。

けれども。
糸井重里の糸井重里らしさは、
<主張A>でも<主張B>でもなく、
あいだにしみじみと横たわる
「そうとも言えるかもしれないけれど、
 やっぱりちがうんだよなぁ。」
にあると、ぼくは思うのです。

ぼくが、しばしば、
糸井重里という人のことばに心を動かされるのは、
それが感動をともなうものであるにせよ、
笑いを導くものであるにせよ、
やや呆れるようなものであるにせよ、
「‥‥この人はそれを何度も考えたのだなぁ!」
という感慨においてです。

糸井重里がみずから口を開く場合はもちろん、
こちらからたまたまなにかを話題にした場合も、
彼の口から出ることばにはあきらかに
「すでに考えた痕跡」がありありと残っています。

ああ、これも、すでに考えてる。
その都度、ぼくは、圧倒されるのです。
それはGoogleマップのストリートビューに
はじめて接したときの、
敬意と呆れの入り交じったような気持ちで
途方に暮れるのです。

どうやら。
昔から、そしていまも、
今日も、昨日も、先週も、半年前も、一昨日も、
そしておそらく明日も、来年も、ずっと先も、
糸井重里は、それについて考えるのです。
考えて、当たり前にずっと考えて、
いつか結論のようなものが出たとしても、
今度はその結論をしげしげと眺め
また新しいフェイズで考えるのです。

波打ち際にも大海原にも等しく波があるように、
その考えは規模や深さを問わずくり返されます。
つまり、めっちゃ多岐に渡ります。
ひとつの考えはほかの考えと結びついて
あらたな結論を生みだしたり
かえって謎を深めたりもします。

糸井重里のことばのマニアとして
わかったふうなことを羅列していますが、
ここはそういう役目を
書き手が勝手に担っていると思って
どうぞ寛容に仮説におつき合いください。
(ご本人にも、同様にお願いしたいところです)

広く近く、長く濃く、深く淡く、
考えを重ねてきた糸井重里がどうなるかというと、
「どこを切っても考えがあるぞ」という、
いわば、考えの金太郎飴のような状態に近づきます。
それは、ある分野を専門的に研究する学者とも、
きらきらした目で世界の謎を解き明かそうとする
少年の好奇心とも違う、
「自然で日常的な考えの集積」です。
それは、観光名所になる奇岩くらい、
特殊で、変で、独自で、魅力的です。

そのように「考える糸井重里」に
おもしろみや、すごみを見いだすとき、
考えの結果や結論よりも、考えること自体が
その人の本質だということに気づきます。

話を戻せば、
幾重にもわたる考えの結果、
みちびかれた<主張A>も、
それを上書きする<主張B>も、
(もちろんそれはそれでとびきりなのですが)
いずれ波にさらわれてしまう可能性がある。
というときに、とびきりの枝葉の幹に当たる部分を、
「そうとも言えるかもしれないけれど、
 やっぱりちがうんだよなぁ。」という、
表面的にはなんの主張もないことばのなかに感じ、
ぼくはその本質的な手触りに対して
ああ、これは、と膝を打ったのです。

もちろん、この本には、
<主張A>や<主張B>はもちろん、
<主張G>や<主張γ>が
たくさん掲載されています。
それはそれで十分に読み応えがありますし、
人呼んでこのシリーズは
「ベスト・オブ・糸井重里」ですから、
さまざまな仮説や結論がページに踊っています。

そして、そのうえで、ときどき、
表面上はなんの主張も込められていないような、
「考える糸井重里本体」みたいなことばが
散りばめられていて、
そこが、なんというか、
この本のチャームになっているんです。

添えなくてもよい注釈を終盤に添えるとすれば、
なにもぼくは自分の編集の正しさを
力説しているのではありません。
結果的にそう思われてしまう危険性を
十分に承知しながらも書くのは、
糸井重里のことばとマニアックに接する立場として、
いや、ありていにいえば、糸井重里ファンとして、
おなじく糸井重里のファンが多いであろう、
これを読んでいるみなさんに、
「ねぇねぇ、そう思わない?」
と問いかけたくなったからです。

なんというか、
多くの方はとっくにご存じかと思いますが、
糸井重里というのは、
さまざまな魅力と特質を
複雑に合わせもつ不思議な多面体です。
その多面性ゆえ、ぼくらは
バッターボックスに立つイチローに向かって
「イッチローー!!」と叫ぶように
快活に彼の名前を叫ぶことが、
ふだんはちょっとできづらい。
それは、糸井重里というめずらしい人に、
からっとした、シンプルな声援が、
なんだかそぐわないように感じられるからです。

それゆえ、
糸井重里のことばをギュッとまとめた本を出す、
という、年に1度のこの特別な機会に乗じて、
ぼくは、おそらくこの本を
静かに待ってくださっているであろう、
糸井重里のファンのみなさんに対し、
「糸井重里ー!!」と叫ぶようにして
「ねぇねぇ、こんなふうに思うんだけど、どう?」
と、問いかけてみたくなったのだと思います。

でも、ねぇ、ほんと、そう思いません?

ああ、けっきょく、
ずいぶんややこしい話をしてしまいました。

今年も、この本を編めたことを、
そしてみなさまにお届けできることを、
とてもうれしく思います。

どうか、買うとも買わないとも決めず、
ぼんやりと微笑んでくださっている方も
『あたまのなかにある公園。』という本のことを
積極的に考えてくださいますように。

きっと、よろこんでいただけると思います。
予約注文は、4月13日からはじまります。

どうぞ、よろしくお願いいたします。



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