谷川 | 糸井さんの文体というのは もう、完全に「電子メディアの文体」として 成り立ってますよね。 我々、印刷メディアから出発しているので どうしてもそこが捨てきれない。 糸井さんも、出発は 印刷メディアだったと思うんですけど、 いま書かれているものは 電子メディアとしての文体になってますよね。 |
糸井 | はい。 |
谷川 | あの、物理学の世界では、 ものの存在に粒子性と波動性が あるというのが常識らしいんですけど、 言語にもね、やっぱり、粒子性と波動性がある というふうにぼくは思っていて、 活字メディアというのはどっちかというと やっぱり粒子性なんですよ。 ひとつひとつの活字から成り立っている。 ところが電子メディアというのは 同じように文字を扱いながらも、 たとえば「ほぼ日」の1ページを見ると、 波動性のほうがずっと強く伝わってくる。 たぶん、自分で意識して そうしているわけじゃないと思うけど、 糸井さんの強みは、波動性を すごくうまく使っていることだと思うんです。 っていうより、波動性そのものとして 生きているといえばいいのかな。 粒子性に引っ張られてないというところが ぼくはすごくいいと思うんです。 ぼくもね、本当はそうしたい(笑)。 そうしたいし、ある程度は そうできていると思うんですけど、 どっかでやっぱり粒子的なものに引っ張られて、 「一編の詩」とか「一冊の詩集」という発想から 逃れられないところがあるんですよ。 |
糸井 | ああ、なるほど。 |
谷川 | 本当はね、詩も、本も、ことばも、 どんどん消費されていいはずなんです。 自分のことばがその時代に どういう影響を与えているかみたいなことは まったく考えないで、 ひとつの流れとして、波として、 ずーっと生きていくっていうのが この時代に合っているはずなんです。 |
糸井 | あの、やっぱりぼくは しゃべりことばでスタートしているんですね。 |
谷川 | はい。 |
糸井 | で、コピーライターの文体っていうのが 昔からあったわけじゃないんですけど、 山口瞳さんにしても、開高健さんにしても、 コピーライターをやっていた時代があって、 彼らは、しゃべりことばを すごくうまく使っていたんです。 野坂昭如さん、あと伊丹十三さん、 もっとさかのぼっちゃえば 落語にまで至るんですが。 しゃべりことばを使って表現すると、 むつかしい漢字は使えないし、 困ることも多いんですけど、 広告のコピーをつくるときには、やっぱり、 しゃべりことばでコミュニケーションしないと 大勢に対して成り立たせられないんです。 だから、ぼくは、広告のことばを考えるうちに、 無意識のところで、しゃべりことばで ほぼ全部のことを言いたいっていうふうに 考えるようになったんだと思います。 |
谷川 | うん、うん。 |
糸井 | そういう下地のある人が インターネットをはじめたわけですが、 インターネットってまず 文字数の制限がないんですね。 で、原稿料も発生しない形だったし、 テーマが与えられてもいない。 そこで、「全部自由です」と言われたときに それがなにに似ているかっていったら 友だちとダベっている状態だったんです。 で、友だちとダベっている状態というのは、 考えようによっては、 世界のすべてを語れるわけで。 |
谷川 | そう、そうですね。絶対そうですよね。 |
糸井 | はい。そこがけっこう早い時期に、 ぼくの頭の中で、 ある種のユートピアとしてできたんですね。 ですから、残んなくたって構わないと思うし、 「難しい話なんだよ。こういうと近いかな」 みたいなことも探して言えるようになった。 この表現法は、大げさにいってしまうと、 「大衆の武器」として とっても効果的だと思うんです。 |
谷川 | うん。 |
糸井 | それはみんなが使うことができるし、 みんなに読んでもらうこともできる。 なにかを伝えたいときの方法として すごく自然なんです。 たとえば、あの、養老孟司さんの本だって、 自分で原稿を書いていたときには さほど売れなかったんですよ。 |
谷川 | ああ〜、そうか、そうか。 |
糸井 | そうなんですよ。 で、編集者を相手にしゃべって、 それを文字に起こした 『バカの壁』を出したら売れたんです。 |
谷川 | それは、ぼくがひらがな表記で詩を書くのと、 ほとんど同じことなんですね。 |
糸井 | ああ、そうですね。そうだ、そうだ。 |
谷川 | ぼくの場合は、その元になっているのは 幼児用の絵本なんですけどね。 絵本って、子どもが相手ですから、 さらに独特の難しさがあって、 ひらがなにすればいいというわけでもないんです。 たとえば絵本のなかで幼児に 「社会」というものを伝えようとするときも 「しゃかい」とは書けないわけ。 いくらひらがなにしても無理なんです。 じゃあ社会を5歳児にわかるように、 なんて言やいいんだ? っていうのは、これ、大難問なんですよ。 |
糸井 | そうですね。 |
谷川 | 誰も答えられないのね。 もともとの原因がなにかというと、 明治維新のころに輸入した 西洋的な観念、概念というものをね、 日本人は便利だからというので いったん全部、漢語に移したわけです。 でも、意味は体感できてないから、 根なし草のようになってしまった。 それは現代日本語の大きな問題点の ひとつだとぼくは思っているんだけど。 で、その根なし草のようなことばも、 外国語みたいにしてとにかく使うことによって 暮らしとか体に根づいたことばとして ようやく馴染んできたんだと思うんですね。 つまり、西洋から輸入した 観念的、抽象的な概念が、140年後になって、 ようやく暮らしと体に即してきた。 というときに、糸井さんのやっていることは、 具体的、現実的な細部からはじめて 抽象的なものを伝えているから すごいし、新しいんです。 |
糸井 | なるほど‥‥と、他人事みたいに、 感心しながら聞いてますけど、 自分がそう意識しているかどうかはさておき、 あの、すごく、うれしいです(笑)。 |
谷川 | (笑) |
(続きます) |