ほぼ日 |
斉須さんが雇うとしたら、
理想の新人って、どんな人ですか。
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斉須 |
シェフを、今日から雇ったとします。
透明になじんでほしいですよねぇ。
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ほぼ日 |
「透明」って?
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斉須 |
余計な色がついていないというか。
そして、こちらが新人だとして、
「自分がある環境に透明になじむために」
と考えてみますと、要するに
そこにいる人たちと同じものを宿さなければ、
透明には、なれないものですよね?
別のものを持っていては、
調理場で、異物として扱われますから。
そうすると、いろいろと、
今の自分の持っているもので
減るものと捨てるものとを、
選択しなければいけません。
捨てられないものをひきずりながら
あたらしいものを手に入れようという
ムシのいい若者もいますから、
「それでうまくいくことは、ないよ」
「欲しかったら、ぜんぶ捨てなさい」と、
それだけは、徹底的にたたきこんでいます。
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ほぼ日 |
ソースをスープのように飲む生活で、
斉須さんは、足に静脈瘤が
できていらっしゃるとか・・・?
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斉須 |
それは、いまでも職業病です。
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ほぼ日 |
うわぁ。
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斉須 |
何かを得るためには、
何かを失わなければならないと思います。
ぼく個人の経験で言いますと、
日本を離れてフランスに行く時に、
それまではたらいていたところとの
つながりを、ぜんぶ絶ったのが
いま思えば、よかったと感じています。
志を立てて行ったのに
帰ってから、また昔の職場に戻って
おなじように働かなければならない人が、
実は、とても多いですから。
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ほぼ日 |
斉須さんは、外見からすると、
屈強で、とても意志が強そうですけど、
実はそうではないのですか?
そう、前にうかがって、
びっくりしたんですけども。
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斉須 |
いやぁ、ぼくはふつうですよ。
気も弱いし臆病だし、技術はヘタです。
専門学校に入って
ちゃんと学んだ知識はないですね。
ぜんぶ、現場で、
生理的に抜きとった仕事しか、
身についていないんです。
だからいつもこわいのです。
若い人たちの豊富な知識は、
いつも、あなどれないと思っています。
ですから、若い人たちの先を行かないで、
おなじようにいつも一緒に並走しながら、
若い人の養分をぼくが少しずつ取って、
また、ぼくの養分も若い人に与えて、という
相乗効果をいつも意識してやっています。
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ほぼ日 |
「自分が料理の世界で生きていくのだ」
ということに関して、若い人の中には
迷いがある場合もあると思いますが、
その点については、どう考えられますか。
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斉須 |
そういう人は、きっと、
意外と飲み込みがはやいんです。
ぼくのことで言えば、
ぼくは学校の時代にクラブ活動を
ぜんぜんできなかった。
集団生活もじょうずではなかったので、
社会に出てから、ひとりで51歳まで
そのクラブ活動をやっていたようなものですね。
つまり、器用にできなかったから、
自分なりの長いスパンで
ひとつのことをやってきたという気がします。
いまこうしてお店をやっていると、
「斉須、おまえ、あの時の斉須か」
と来てくれる同級生がいます。
実際に学校にいた時は、
みんな、スーパースターだった。
・・・そうすると、
「俺、学校時代には
何にもじょうずじゃなかったけど、
まあ、やってきたよ」
と言ってその人たちに会えている自分を、
なかなかいいなあと思うんです。
うれしいですね。
つまり、自分でも、なかなか
なりたい自分になれなくて、
右往左往していたのが、現実です。
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ほぼ日 |
意外です。そうなんですか。
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斉須 |
ですから、
はやく職業をうつってしまえるという
そんな余裕は、ぼくにはなかったのですが、
たしかに、今の若い人の中に、
自分ひとりの能力を過信してしまっている人が、
とても多いように感じますね。
・・・ぼくの場合は、
過信できるほど、度胸がありませんでした。
いまもそんなに自信がないのですが、
それがいい作用を生んでいるのではないかと、
自分では思っています。
大上段に切り込む勇気はない。
でも、何か自分というものでいたい、
という自分がある・・・だから手探り状態で、
「もしかしたら、やれるかな?」
「いや、でもこわいな。まだダメだ」
と、そんなくりかえしで、やってきたんです。
ですから、お店のメニューは、
これがいけるかなと思えば出しますし、
まずいなと思えばすぐにひっこめてしまいます。
ですから、メニューも、
ゆるやかに味つけを変えていきます。
・・・たとえば、人間関係が発展して
多岐に渡って食材の流通コネクションが
生まれたりすると、作るものも変わりますよね。
結局、人との出会いが
料理の幅に帰結しているような気がします。
10年前に『十皿の料理』という本を
出したことも、人との出会いを広げる、
非常に大きな窓口になりました。
料理のことを知らない人が、
ぼくのやっていることを知ってくれましたので。
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ほぼ日 |
斉須さんのお母さまは、
斉須さんが、最初の本を出した
3か月後に、亡くなられたんですよね。
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斉須 |
ええ。
何だかすごく、面映ゆかったですね。
母親は料理の世界のことは
まったくわからない、
田舎のひとりのおばあさんでした。
フランスなんて、彼女にとっては
ほとんど絵空事で、空想の世界でしか、
知ることができなかったことと思います。
そういう中をくぐり抜けてきたわが子が
こういうことをしてきましたよ、という
人生の道行きを、本の文字という
かたちにして、母親に渡したわけです。
母親は肝臓を病んでいましたが、
読んでくれました。
ぼくは小さい頃からぼんくらでして、
「懇談会とかに呼ばれて帰ってくると
いつも落ち込んでいた」
というのが、ぼくの中での母親像でしたから、
そんな母親に、ちょっといいところを
見せられたかなと思っています。
「すごく、がんばったんだね」
と母親が言ってくれた時には、感無量でした。
母は飛行機も乗ったことがないし、
外国に行ったこともない人でした。
ぼくも、もしかしたら
そういう人生だったかもしれません。
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ほぼ日 |
小さい頃は、何になりたかったんですか。
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斉須 |
お寿司屋さん。
職業の内容なんてわかりませんが、
ただ、キリリとねじりハチマキをして、
ノリのきいた白衣を着て
お客さんの前でキビキビはたらく
いなせな姿の職業にすごくあこがれて、
「ああいうのになりたい!」と。
母は、とんでもないと言ってました。
ぼくがどれだけ情けない子かを
彼女はよく見ていたでしょうから、
「あんたにはできないよ」って。
だけれども、同時に、ふだんから
育つ過程でいつも言われていた言葉があって、
それは、このごろ
すごく自分に返ってきています。
「人にできたら、あんたもできるよ」
・・・これは、何かを感じる言葉なんです。
自分の職業の中で、ある程度、
思い通りにできるようになった今にして、
わかるようになってきたというか。
成績とか対人関係でうまくいかなかった時に
母はいつもそう言っていたのですが、
いまは座右の銘になるような言葉ですね。
ここをオープンしてから、
3回、田舎から来てくれましたが、それが
ぼくの一本刀土俵入り、という感じです。
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ほぼ日 |
ご両親ともに福島出身とか。
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斉須 |
ええ。白河です。
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ほぼ日 |
フランス人の中に、何か
東北人とつながるところがあると、
以前に、おっしゃっていました。
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斉須 |
ええ。
フランス人は、まったくの東北人ですよ。
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ほぼ日 |
え!?(笑)
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斉須 |
まぁ、気質として
東北人はフランス人になれると思った(笑)。
ですから、フランスにいる12年間は、
ぼくには、すごくたのしかったです。
フランスに行った日本人の中には、
人種差別を受けたという人もいます。
確かに、断片的に
そういういろいろな場面は見ましたが、
自分がそういう扱いを受けたことは
なかったですし・・・大人の国ですから。
実力がなかったらだめだという
シンプルな「よさ」があります。
いいところに来れたなあと思いました。
ですから、最初にフランスに行った時に、
「ここで頑張って、
ある程度やれるようになったら、
もしかしたら、日本に帰れるのかな?」
と思いました。
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