調理場という戦場。 コート・ドールの斉須さんの仕事論。 |
第11回 便利すぎると、人は動かなくなる。 斉須さんがフランスで勤めたレストランについて しゃべってくださった内容を、単行本の 『調理場という戦場』発売にさきがけて紹介しています。 ふたつの三つ星レストランを含め、斉須さんは、 フランスでは、合計で六つのレストランで働きました。 それぞれのお店では、料理長であったり、 アシスト役であったり、見習い同然であったり・・・。 調理場でのほとんどの役職を勤められたそうです。 ここのところ紹介をしているのは、 フランスで生活をしはじめた頃に勤めた レストランでの仕事について、です。 そんなに清潔ではないレストラン。質より量だった調理場。 ここで二〇代の頃に経験したことを振り返りながら、 斉須さんの現在の仕事論についても、話してもらっています。 では、今日も、ゆっくりとお読みくださいませ。 『調理場という戦場』からの抜粋紹介をいたします! ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ <※第1章より抜粋> 今思い出そうとしても、 魚と野菜とかの下ごしらえをしている間に 賄いを作っていた風景がありありと目の前に浮かびます。 とにかく、やることが多かった。 お店の機材は十分に揃っていませんでした。 当時七〇年代後半のフランスの田舎だとしても かなり珍しいお店の一つでしょうが、 氷ひとつ作るにも製氷機がなかったのです。 フタつきの箱で、壁にニクロム線のようなものが 入っているストッカーがあって、 金属バケツに水を入れて、フタをして ソミュール(塩水液)に一晩つけて置くと氷になる。 それを朝に出して外に持っていって、 お湯をかけて砕いていました。毎日これをやる。 田園生活というか、ほんとうの 家内手工業の中に飛び込んだようなものです。 牛乳ひとつにしても、近くの農家にもらいにいき、 一度沸かしてから使うというような、そういう生活でした。 チーズはチーズ屋さんに買いに行く。 もともと、周囲は 加工食品の工場がたくさんある場所でした。 マスタードの工場、 フランス最大手の缶詰工場がありましたね。 便利さということで言うと、 日本のレストランのほうがずっと進んでいました。 「もっと安直に迅速にできる器具があるのに なんで駆使しないのだろう?」 「導線(調理場の足場)の使い方がうまくないな」 そんなように、思ったこともありました。 段取りが非常に悪いがゆえに、いつもいさかいが絶えない。 一見、スムーズに手を打てばいいように思えるし、 実際にぼくは当時そう思っていました。 だけど、もしかしたらそうではないかもしれないと、 あとで気づきました。 「開戦という時になって はじめて剣を研ぐような体制でどうするのだ?」 当時、そういうことが多々あったのですが、 そこから離れて俯瞰して考えてみると、 おいしさには不手際が反映しているかもしれない。 そう思うのです。 便利すぎると、人は動かなくなる。 機能がいいと、 「これが不便だから、ああいう道具を入れればいい。 こういうものがあればいいのに……」 と、自分から動かなくなってしまうところもあります。 何も揃っていなければ、自分で動くほかに解決方法がない。 例えば、香草に対するケラーさんの方針は、いつも 「香草は料理に入れる直前に作る」 というようなものでした。 ブルケガルニは必ず使う香草ですから、 作っておけばいいと思うのです。だけど 「香りのものは作り置きをしておくとしなびてしまう。 もの自体の百%の威力を発揮できなくなる」 そのひとことが返ってくるだけだった。 その言い分はよくわかるけれど、 既にまにあわない体制で料理を作っているのです。 最前線でやらされている人には酷な要求でもあった。 「無理だ!」と言っても通るはずもなく、 見えないところに 作って隠しておいて仕事をしていました…… 非効率極まりない調理場です。 だけど、不手際やいさかいこそが、 カンカングローニュの おいしさの源だったのかもしれません。 情緒も余裕もへったくれもない中で 出るものもあると言いますか。 火がついているから落ち着いていられなかった。 そして、便利さには逃げられなかった。 器具がないから、ひとつずつの工程に 野蛮なほどに時間をかける必要があった。 「オーナーは、こんなに不便なことを、 なんでいつまでも改良しないのだろう?」 ぼくも若かったのでそう思っていたし、 リアルタイムでそういう調理場にいる人は、 きっと誰もが「効率が悪い」と 文句を言いたかったことでしょう。 イヤになってしまう時期もあるような調理場だった…… けれども、あとで引いて見てみると、 不便さがいい塩梅になっているような気がするのです。 ラクではないから一生懸命やるし、 争いは絶えないけれども、長い目で見れば それはチームメイトどうしの意志疎通や 親しみや思いやりにもつながる。 次から次に新しい課題が出てくるから、 マニュアルどおりできないことに対して柔軟に対応できる。 チームメイトは、一度は 「ここからもう降りたい」 と思うかもしれないけれど、乗りきる力はつく。 まったく同じ形ではないけれども、ぼくは現在の コート・ドールにも効率的ではないものを導入しています。 ボタンひとつで何でもできるというところまで 行ってしまえば、ぼくの出したい料理はできない。 いいお客さんも来ない。 おいしいというのは ラクなこととは意味がちがっていますから。 みっともなさや不便さを介在させないと、成り立たない。 仕事の仕方に関わることなのです。 このこと対しては、ぼくなりにですが、 ただ単に回顧しているだけではない 十分な意味を感じています。 最初は言葉と料理がまったく合わないから、 ぼく用に料理にふった番号と ギャルソンの発音をあわせるために 小さい紙にメモをしてポケットに入れたり、 「あの動作とあの言葉は、一緒なんだ」 と気づいたらメモをしたりしていた。 そういうメモが一日に何枚もできました。 仕事がおわって部屋に戻ると、 ポケットからメモをいっぺんに出してノートに書き写す。 理屈も何にもない覚えかただけど、切実でした。 そうする以外に方法も知らなかったのですが、 何とかなりました。 ぼくの田舎での幼なじみで、 プロスキーヤーになった人がひとりいます。 オーストリアのツェラムゼイっていう ザルツブルグのちょっと先に八年間いて、 いまは日本で働いているけれども、 彼も最初は言葉なんかぜんぜんできなかったのです。 何かのスキーのツアーで行って、 彼だけ現地に残ってスキーをしたらしいけど、 ドイツ語を覚えようと学校に行っても、 学校で先生の喋る初級のドイツ語がわからない。 彼はその頃、泣いてた。 でも、みんなとスキーをすべりたいというその一心で、 今はもうすばらしいドイツ語を操りますよ。 ぼくも彼も学校時代は職員室に呼ばれたほうで、 決して語学力に卓越はしていなかったけれど、 やりたいことに伴っていさえすれば把握するんです。 ぼくは当時、 感じたままに話すせないことがもどかしかった。 言葉は人間社会における潤滑油だ、 ということを実感しました。 異国にいるので、なおさら 「意志疎通をしたい、話したい」と思いました。 楽しそうな仲間の輪に参加して、 軽やかに飛びまわりたかった。 「話しあえさえすれば、何のこともないはずなんだ」 「すぐにパッと理解しあえるかもしれないのに」 ローズマリー、オレンジといった基本的な言葉さえも、 聞き取ることができなかった。 「ォランジュ」と言われてもわからなくて、 調べて「あぁ、オレンジのことか」確認した時には、 あまりに基本的な語彙すらわからない状態に、 愕然としていました。 パリから四〇キロ離れたの郊外に、言葉も使えずにいる。 毎日夜が明ける前から、翌日の仕事の直前まで働く。 あとは眠るだけ……。 人買いに買われたような気さえしていたのです。 どこで誰を信頼していいかを、知りたいと思いました。 (『調理場という戦場』より) ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ (※つづきは、5月13日(月)に更新いたします。 メールでの感想をいただけると、光栄です!) |
2002-05-10-FRI
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