COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第13回 ひとつの店に深入りするということ。


『調理場という戦場』、いよいよほんとうの発売間近!!
あと数日で、すぐにお申し込みができるようになりますよ。
「ほぼ日」紙上で先行販売をいたします。お楽しみに!!!

今日、単行本の中から抜き書き紹介をするところは、
いくつかのお店を渡り歩く職業の、料理人ならではのお話。
「スタッフとして雇われるということ」や、
「そこで力を発揮して深入りするということ」について、
斉須さんの経験を伺いました。

フランスの最初のお店で二三キロも体重が増えて
筋肉質のカラダになった斉須さんのお話を、お届けします!





<※第1章より抜粋>


いちばん最初のお店に勤めていた頃は、
お風呂に入れなかったのが、とても切なかった。
下宿していたところで
お風呂に入らせてもらえるほどは親しくなかったので、
お風呂だけは寮に入りに行ってました。

でも、ある時に見習いの子がシャワールームで
自分のバイクを洗っていたんですよ。
一度や二度でなく、何人もの見習いの者たちが交代で使い、
ガソリンが流れて床は油まみれ。
それを見たオーナーが怒ってシャワールームを閉めて、
店の前のマルヌ川にカギを捨てちゃった。
ぼくはお風呂に入れなくなりました。
忙しくて職場と部屋の往復しかしていないから、
知りあいも何もいない。
入る場所はそこしかなかったんです。

一か月近くお風呂に入れなかったこともあって、
その時期には卑屈になりました。
日本人にとってお風呂に入っていないという状況は
自分を卑屈にさせますよ。
「臭いんじゃないか」とか
「みんなに何か思われているんじゃないか」とか、
ビクビクしながら働いているんです。

ずっとお風呂入っていないままで、
何気なくシャツをパッと脱いだ時に、
なんか脇の下に、ビーズみたいなものが
数珠つながりになっているのが見えました。
……垢だったんですよ。

作業の時にこすられた垢が、
数珠つなぎになっていました。
あれを見た時には悲しかった。
ぼくはビニールを買ってきて
屋根裏部屋の天井に吊って、
水で身体を洗うことにしました。
たくさん水を使うと部屋が水びたしになるから、
少しずつにして、また洗って。そういうしのぎ方でした。

眠っては働いて大量に食べるという生活で、
芯から強くなっていくような実感が出てきました。
そのレストランを出る直前は、
もう四肢にチカラがみなぎっていた。
四年目の二八歳ぐらいには、
ほんとうに体格的にもそうでしたねぇ。
腕まくりをしたら白衣の肩がやぶけるほどに
筋肉もついていました。
食べないとやられちゃうから、
とにかくたくさん食べていた。

ぼくの体重は、東京に上京する前は五三キロでした。
二十歳の頃に六五キロになり、
二三歳にフランスに渡って、なんと七六キロになりました。
ぼくはそうなりたかった。基礎体力をつけたかった。
理屈じゃないフランスを自分の体内に埋め込みたかった。

ただ、食べたことによって、
そこまで自分が変わるとは思わなかったですね。
ムキムキになってくるのがよくわかるのです。
自ずと意識も変わってくる。
気持ちの制御ができなくなってくる。
カメレオンのように変化して、
二三キロも体重が増えた自分に、
ちょっとした頼もしさを覚えるようになりました。

四年経った時には、
「もう外に行かなければ」と感じるようになりました。
翼もだいぶじょうぶに育ってきたし、
そろそろ飛んでいこうかなぁと思っていました。
最初に働いたところで羽がはえて飛び方を覚えたら、
「ちょっと、あっちのほうに飛んでいきたい」
と思う時が来るんです。
ぼくはその時にあまりにもお店に深入りしていたので、
オーナーが離さなかった。
結局、ケンカになってしまいました。

ぼくはカンカングローニュに骨を埋めるつもりで
フランスに来たわけではなかった。
三つ星と呼ばれるところがどんなところなのか、
自分の力でやれるものならやってみたいと思って
フランスに来た。

ここで止まるわけにはいかない。

夢をごまかして、
偽りの「終の住処」を作り上げたくはない。
まだゲームは終わっていない。

フランス料理界は紹介の社会で、
コネクションがものすごく幅を聞かせています。
次のお店に移る時には、
前のお店のオーナーが料理人のために
良い職能証明書を書くか書かないかで、
その後のレールの進み具合が、ぜんぜん違う。

でも
「ここに行きたいから紹介状を書いてほしい」
と頼んでから半年待っても、
希望のお店に連絡をしてくれませんでした。
だからケンカです。
仕方がなかった。

最後には
「店を出るなら、わたしがあげた労働許可証を返せ」
と言われました。しかしそれを返してしまったら、
ぼくはもう正規で働けなくなる。
だから「返しません」ということで、
もう完全に決裂でした。

労働許可証は、
ぼくがぼくであるための生死をわかつものだった。

最初のお店は一つ星だった。
ぼくはどうしても三つ星レストランで働きたかった。
紹介がないというのはものすごく不利だけど、
紹介状なしのままでお店を出ちゃいました。
不安だったから、その時期のことをよく覚えています。

ただ、
「これでだめなら、行くところまで行くまでだ」
と思って過ごしていました。
結局、後に紹介状はもらえましたが二か月後でした。

もめてしまいましたが、
「こいつは離したくないな」と思われるまで
一生懸命にやったことはよかったと考えています。
最初から「次にどこに行こうか」と
岸辺に足をのっけながらやっているようでは
仕方がないですから。

調理場では、
「動物どうしのにらみあいで負けたらおわり」
みたいな力関係もありました。
ぼくも行儀がいいわけではありませんでした。
調理場で一生懸命に作っているのに
「手が遅い! マサオは料理が出るのが遅い!」
と、サービスの人に言われた時がありました。
てんてこ舞いのサービス真っ最中で、
パニック状態の時です。
「料理の出るのが遅い」んじゃないんですよ。
明らかにキャパシティを超えている。

それを聞いた時、小羊をローストしていたんですけども、
ぼくはその油をかけながらの小羊を
何の躊躇もなくバッと取って、
言ったそいつにぶん投げてやりました。
「うるせえ!」

……くやしさで、ふるえた。
言葉よりも、行動しかなかったですね。
ぼくは、彼に説明できるような
洗練した言葉をひとつも知りませんから。

「覚えとけ! 手は抜かないし、精いっぱいやってる!
 自分以上のチカラは出ない!」

そういうことは、行動で示してきました。
ちょうど自分でも研磨して
トレーニングして、足腰ができていた。
だからやれたんじゃないかと思います。
最初は行動で示す度胸もなかった。
ほんとうに環境になじむだけで精一杯でしたから。

頭でいろいろと分かっていても
「こいつは単なるお人よしだ」と思われたら、
もう、そのお店にいる間は終わりなんです。

そうなっては、得たいものも得られない。
「こいつは牙をむくかもしれないな」
という部分を相手にきちんと認知させないと、
こちらがグロッキーになるまでやられてしまいます。

最初からあまりに優秀だと、
チームメイトに出だしに叩かれてしまう。
またあまりに愚鈍だと使い走り一辺倒で終わる……
TPОに応じて馬鹿と利口を使い分けていくというか。
そういう感覚はフランスに行かないとわからなかった。

日本のしめっぽいしがらみがまったくなく、
「やるか、やられるか!」だけでした。
こいつにはもう余地がないなと思ったら、
無情にバサッと切り捨てるんです。

日本では「必要悪」と言いますか、
悪いと知っていながらも切れない風土が生まれがちだけど、
むこうにはそういうのがなくてカラッとしていますね。
そんなカラッとしたところを、
ぼくは日本に帰って多用しているんですけど。

ぼくは本来、非常に情が先行してしまう人間ですが、
人の情を逆手にとって生きている人もいるわけで、
そこはバッサリやらないといけないのです。
それは仕事を通じて学んだことですね。



             (『調理場という戦場』より)





(※つづきは、5月20日(月)に更新いたします。
  メールでの感想をいただけると、光栄です!)

2002-05-17-FRI

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