COOK
調理場という戦場。
コート・ドールの斉須さんの仕事論。

第17回 食材を見つめる、ということ。


昨日からはじまった『調理場という戦場』の
先行発売に対してのたくさんのご注文を、
みなさん、ほんとうにどうもありがとうございます。

(※たいへん好評でして、
  あとわずかで売り切れそうなのです。
  お求めのかたは、お急ぎくださるとさいわいです!
  先行発売のページは、こちらになります。
  ぜひ、クリックして見てくださいませ)

では、今日も、単行本の中から、
抜粋紹介でお届けいたしますね。
素材を見つめるということについて、
斉須さんに伺った談話を、ご紹介です!





<※第2章より抜粋>


眺めていては見えないものを、
見つめることによって見極められる人。
ふつうは流してしまいがちなものなのに、
まるで顕微鏡でモノを見るように
明確に見つめることのできる人。

ぼくは、そんな人になりたかった。
料理人として一般の範疇のアイデアを
逸脱できるかどうかの分かれ目は、
この「見つめる」という姿勢を
取れるかどうかにかかっていると思っています。

すばらしい料理人たちからは、
人格的にもすばらしいお手本を見せていただいたのですが、
料理からも、
人格形成に大きな影響をもらったような気がします。

よく「もの言わぬものの声」だとか、言われていますよね?
ぼくも見習いの頃によく言われました。
「花や音楽や絵画の出しているもの言わぬものの声」と。
長い間、ぜんぜん意味がわからない言葉だった。
「どこから声が聞こえてくるんだよ?」と思っていた。

だけど、ニンジンだ長ネギだタマネギだと
毎日毎日手にとっていると、
それなりに感じることが出てくる。
「きっと、粗雑な扱いをしてもらいたくないんだなぁ」
「大事に育てられたこの野菜は、
 こうなりたいんだろうなぁ」
そうやって自分なりに感じて
お皿に盛るようになるわけです。
「こういうことが、
 声なき声を聞くということなのだろうか?」
とだいぶあとになって気づいたのだけど。

きっと、ある期間を、フランスという
真空滅菌状態に生きたのがよかったのでしょう。
もともと、ぼくの場合はフランス語を喋ることに
不自由を感じていたので、
食材の中から聞こえる声に耳を傾けるしかなかったのです。

まわりの人と意志疎通をできなかったものだから、
自分で材料に問いかけて答えを出して
作って食べて自分でうなずいて……
という日々にならざるをえなかった。
軽いノイローゼ状態でもあったと思う。
パッと何かきっかけがあったら、
抱えこんでいた複雑な気持ちが
爆発してしまいそうな感じです。

その頃はつくづく「喋れたらいいのにな」と思ったけど、
後になってみると、ものを言えず行動を出せないまま
ものに向き合うという状態は、とてもいいですね。
自分との問いかけを醸造する時間があることがよかった。

例えば、仔羊のフォンを作ることと人生とは、
とても似ていると思いました。

ソースを作る料理人の思いは、
子を持つ親の優しさに重なるように感じたのです。
仔羊の骨と野菜と水は、
素材の時点では何の価値もありません。
どう生まれ変わるのか、見当がつかない。
そして、赤ん坊がこの世に生を受けた時も、
その子が将来どのぐらいの器の人間になるのか、
誰にもわからない。

料理人は、骨や野菜に熱を加えます。
沸点に達したあとには丁寧にアクを掬いとる。
これは、子どもに対する親の姿に
とてもよく似ているなあと感じました。

準備をして、よいところが湧き出るようにじっと待つ。
悪いところが見つかれば、丁寧にとりのぞいてあげる。
フォンや子どもには、こちら側から
辛抱強く思いやりを注いでいれば、
自分のほうから素直なすばらしさを発露してくれるのです。

フォンは制作過程を通して料理人を育ててくれる料理です。
そして育児は、育てる親側の
人格を育てることにもなります。
土から芽生えるなり、海で泳いでいたなり、
食材は、それぞれが時間をかけて
労をかけて豊かに育ったものです。
それに対して、人は
「腹が減ったから食べる」ということをしていますよね。
生きているものを、こちらの都合で屠殺したり、
刈り取ったり、摘み取ってしまう。
それに引き換えるものとして
ぼくから何をできるかというと、
それは丁寧に扱うという感謝の念しかない。

作り手の感謝のエッセンスが料理なのだと思います。
太陽が降り注いですくすくと育ったものに対して、
感性やインスピレーションや経験を
ぜんぶ一緒くたにして、感謝を示したい。

素材の中には使われるものと使われないものがある。
皿の上に行く部分とごみ箱に行く部分がある。
高価な素材と安価な素材がある。
だけど、
「安いから粗雑に扱っておけ」
「捨てる部分だからこっちに放っぽっておけ」
と思う人がいるとしたら、
その心根のほうが許せないですね。

自然の光を浴びて生まれ育ったものを、
ほんとうはみんなテーブルに載せたい。
そう思ってあげないと、かわいそうです。
ぼくなら、お客さんのテーブルに
行かないまでも、賄いで食べたい。
形としてはお客さんには出せないものかもしれない。
ちょっと筋っぽいかもしれない。固いかもしれない。
だけど、一生懸命育った命です。
食べてあげたい。
そういう意識でやっています。

自然のものを手にして
何がしかを生みだしている職業にいるので、
最近は怖くなることもあります。
時が経つごとに、作為に満ちたものが
手の中に入ってくるようになっている。
自然のものではなくなってきている。
「笑顔で麻薬を注入しつづけているような食品」
が増えてきている現実もよくわかっています。
だから毎日、素材を通して
いろいろなことを思ってしまいますよ。

人間の介在しない食べものが増える事態は、
これ以上進まないでほしいなと思いながら
仕事をしています。



             (『調理場という戦場』より)





(※こちらの単行本先行販売ページも、
  ご覧になってくださるとうれしく思います)

2002-05-23-THU

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