沈黙ということ
2008-08-25
最近、よく
「沈黙」ということを考えの中心にしてみている。
それは、もともとは、
吉本隆明さんの
「ことばの幹と根の部分は、沈黙です」
という『芸術言語論』のテーマからもらったものだ。
(これについては、
『吉本隆明の声と言葉。』というCD&BOOKのなかに、
対談のようなかたちで掲載されているので、
読んでもらえるとありがたいです)
「沈黙」というのは、聞こえない。
「沈黙」は、見えない。
しかし、「沈黙」というのは
何も無いということではない。
しかし、「沈黙」は、いままで、
何も無いということにされてきてしまった。
「沈黙」して生きているものは、
なんの価値もないものとして扱われたりする。
こうして、文字にするのもおぞましいのだけれど、
知的な障害のある人を恐喝したり
暴行したりする中学生のニュースを読んだ。
これも、「沈黙」というものを、
何も無いということにしている考えなのではないか。
自分の小さな子どもを虐待する親も、
子どもたちの「沈黙」を無だと思っているのだ、きっと。
動物虐待も、「沈黙」への暴虐だ。
「沈黙」していてはいけない、ことばを持て、
と言われても、動物は、子どもは、弱い人は、
「沈黙」の外に出られない。
だからといって、「沈黙」は、
無でもないし、ただの弱さでもないのだ。
「沈黙」したまま、虐げられているものは、
ほんとうは攻撃しているものの一部分だ。
「沈黙」を殴るものは、自分の「沈黙」を殴り殺している。
「沈黙」を餓えさせるものは、
自分の「沈黙」を餓えさせ衰弱させている。
ぼくらの生きている世界は、
「沈黙」を無視し、「沈黙」を軽蔑し、
「沈黙」を虐げ、「沈黙」を無き者にし続けて、
それぞれの内側にあった「沈黙」を失いつつある。
「沈黙」の権化のような存在であった「神」は、
さらに深く「沈黙」して、
いまの世界がどうにかなるのを見つめている。