ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

おれは生きる、という発想。

いまみたいに景気がわるくなってきたり、
いろんな循環がうまくいかなくなってくると、
「どうしたらいいんだろう」ということを、
考えることも多くなる。

もともとぼくは心配性だから、
しょっちゅう「どうしたらいいんだろう」なんてことは、
考えてばかりなんだけれど、
いまみたいな状況になると、
あんまり心配性じゃなかった人も、
もともと心配性だった人も、
どっちもが「どうしたらいいんだろう」と、
考えるようになる。

心配性については、
他のこととちがって、
ぼくは大先輩だから、
ある程度は、先輩ぶったことが言える。
と言っても、あんまりたくさんは言えない。
心配のタネというのは、人によっていろいろだから、
どれだけ先輩だったとしても、
どうすりゃいいのかの判断など、できるものじゃないのだ。
どうすりゃいいかについて、
いかにも正しそうな助言などをもらうより、
「腹いっぱいめしを食わしてくれるほうがいい」
なんてことだって、いくらでもあるだろう。

心配性の先輩が言えるのは、
かつてじぶんがしたことのある
余計な心配についてだけだ。

心配なときというのは、余計な心配をするのだ。
ほんとうの心配と、その解決についてさえ
どうすりゃいいのかわかりゃしない時に、
もっとどうしようもない問題まで、
心配しはじめちゃうものなのだ。

勘のいい人は、思い当たっているかもしれない。
つまり、「あんたが、あのこに失恋しそうだ」という場合、
うじうじと、ぐずぐずと考えることになるだろう、まず。
まぁ、だいたいは
「どうにもならない」という結論になるのだけれど、
問題はとてもはっきりしているわけで、
それは「あんたが、あのこに失恋しそうだ」から、
「どうしたらいいんだろう」ということだ。

そこに、他の問題は入らない。
「女というのは、なぜこんなに冷たいのか」だとか、
「おれは、この先、女とつきあえるのだろうか」とか、
「人間には、どうして男と女が存在するのか」とか、
ぜんぶ関係ない。
問題は「あんた」が、「あのこ」にふられそうだ、
というだけのことなのだ。
とても清々しく助言をするならば、
「ふられたらよろしいではないか」である。
だいたいは、ふられるものなのだ。
「だめかもしれない」だの
「どうしたらいいんだろう」なんて思ったときには、
もうだめだ。
そのくらいに思っていたほうがいい。
死ぬわけじゃないし、別の日には、別の人に会うのだ。
それくらいに思っていないと、うまくいかない。
いや、それはぼくなりの考えだけどさ。

いや、何が言いたかったかというと、
心配性の初心者は、心配の仕方がおおげさなんだ、
ということだ。
じぶんがどうしたいか、とか、
じぶんがうまくいかない、とかいう問題について、
もっと大きな他の問題を混ぜすぎるんだよなぁ。

失恋の話とかで、ややこしくしちゃったかな。
「パンが食いたいのに、世界平和のことで悩んじゃう」
このくらいの例のほうがよかったかな。

パンと世界、パンと平和、関係ないとは言い切れないよ。
たいがいのことは、有機的につながっていると言える。
でも、パンが食いたいと、本気で思っている人は、
世界だの平和だの考えてないで、
パンを手に入れる方法を考えるんじゃないのか。

いまみたいなときって、
さまざまな業界が景気がわるい、という話になる。
で、「仕事がすっかりなくなっちゃいました」とか、
「会社がつぶれちゃいました」とか、
そういうことは、ありうると思うんだ。
でも、まぁ、たいていは、
「仕事がなくなってきてます」とか、
「会社がつぶれそうな感じです」とか、
ほんとうにひどいところの手前で心配している人のほうが、
数字的には圧倒的に多いんだけどね。

こういうとき、心配性の初心者は、
「業界」とか「構造」についてばかり語りたがるんだ。
その「業界」が、どれほど昔から危なっかしかったか。
この先にも、この「業界」には実に希望が見えない。
「業界」のあちこちで、おおぜいが悲鳴をあげている。
そういうことを、たっぷり語り合っていると、
それぞれ「業界」の人だから、「業界」に詳しい分だけ、
いくらでも語れるんだよ、たいていは。
いくらでも語れるし、語られた情報は聞かれて語られて、
どんどん増幅されて広がっていくよね。
聞けば聞くほど、その「業界」
すごいことになっちゃっているよ。

そんなすごいことになっちゃってるもの、
「あんた」にゃ、救えないだろう?
そして、その「業界」に少しでも希望が見えることと、
あんたの身の上の心配とは、関係なくないか?
「業界」がいい方向に向かってても、
「あんた」の仕事がうまくいくとはかぎらない。

「あんた」の将来の安心や、「あんた」の家計は、
「あんた」がいくら本気で「業界」のことを語ろうと、
どうにもならないんだ。
あんたが救うべきは、「業界」じゃなくて、
「あんた」自身や、
「あんた」の家族や仲間なんじゃないか?

いざとなったら、「業界」なんてなくなったっていい。
そういうとずいぶんひどいこと言ってるみたいだけど、
「あんた」は「業界」なんていう観念に、
愛を捧げる必要なんてないんだ。
「おれはこの業界が好きなんだ」ってね、
必ず言いたがるやつがいるんだよ。
信用できないね。
好きな仕事をしていた、ということもわかるし、
その「業界」にいい仲間がいたかもしれない。
その「業界」のお客さんのことも好きだったかもしれない。
だけど、「業界」は人ではないし、
「あんた」をきっと守ってくれる組織でもない。

「あんた」は、「あんた」が幸福に生きていくために、
どうしたらいいのだろうという問題を、
ほんとに真剣に「心配性する」べきなのだ。

明治時代になって、武士たちは、
ちょんまげを切って、腰の大小の刀を外して、
それで生きていたんだよ。
「業界」どころじゃない強く大きな観念を、
捨てて生き直したわけだろう。
それに比べるまでもないだろうけれど、
「おれはこの業界が好きなんだよ」という言い方の、
どこまでがほんとうで、どこからがうそなのか、
じぶんに、ちゃんと訊いてみる必要があると思う。

自動車業界、テレビ業界、広告業界、建築業界、出版業界、
‥‥なんでもいいけど、いろんな「業界」があるよ。
その「業界」の都合を心配しているうちは、
心配性としてのほんものじゃないと思うんだよなぁ。

だってさ、「写真のフィルム」の業界だった会社なんて、
「業界」としての心配していたら、
きっとデジカメ以後を生きられなかったよ。
印刷の「業界」だった会社だって、
半導体をメインにして仕事をしているっていうしねぇ。

くねくねぬるぬると、生き物ってのは、
かたちにならないような生命感を発揮して、
生き抜いていくものなんだ。
心配性の原点は、やっぱり「おれは生きる」だろう。
ちがうか?

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