さみしさとのつきあい。
2009-03-30
「さみしい」ということばが、
わるいばかりのものじゃないと知ったのは、
写真家の荒木経惟さんの挨拶からだった。
自他共に認める愛妻家の荒木さんの、
奥さまの陽子さんが亡くなって、
独り身になった荒木さんを、
励まそうというような会だったように思う。
会の締めは、やっぱり荒木さん御本人の登場だった。
「俺は、いま、いい感じでさみしいんでさ。
これは、すっげぇいい感じなんで、
しばらく楽しみたいからさ。
邪魔しないでほしいんだよね」
というようなことを言った。
しばらく楽しみたい、いい感じのさみしさ。
ああ、そういうものがあるんだよなぁ、と、
その場のぼくは、すっかり感心してしまった。
そんなことを言える、そんなことを思える荒木さんだから、
あんなふうな写真が撮れるんだ、と、
なにかがちょっと見えたような気がした。
荒木さんは、その時期、
奥さんと暮らしていた家のベランダだとか、
いっしょにいた猫だとか、空と雲だとか、
さみしい写真を撮っては発表していた。
いい感じの「さみしさ」とは、
楽しみたいような「さみしさ」とは、
どんなものなのか。
ぼくは、ずっとわからないままだったけれど、
そういうものは、ある、と思うようになった。
さみしさを表現した作品がある。
さみしさを味わう映画もあるし、
さみしさを描き出す小説もある。
しかし、現実の、「おれのさみしさ」というものを、
楽しんだり味わったりすることは、
なかなかむつかしい。
ぼくは、さみしいのが大嫌いだった。
子ども時代に戻るのがいやなのは、
じぶんではどうすることもできないことばかりの
「無力感」がいやなのと、
ぽつんとした「さみしさ」というものに
会いたくない思いがあるからだった。
しかし、年齢を重ねてきたからだろうか、
いつのまにか、「さみしさ」が、
忌むべき敵ではなく、
まるでともだちのひとりとして数えるように、
近くにあっていい感情になってきた。
いや、それどころか、
「さみしさ」が、
あらゆる感情の土台なのではないか、
とさえ思うようにもなっていた。
「さみしさ」があるから、やさしさもある。
「さみしさ」があるから、うれしさもある。
かなしさも、はらだたしさも、
すべて、「さみしさ」があってこそなのだ。
そんなふうに思えるのだ。
数年前に、さぁ眠ろうと思って寝室に入ったとき、
どういうわけか、
じぶんの寝ていないじぶんのベッドを見た。
どうして、そんなふうに見えたのかわからないけれど、
「じぶんのいない世界」というものが、
そのときのじぶんに見えてしまったのだった。
ぼくがいなくても、世界は続くというのは、
まったくあたりまえのことなのだけれど、
ぼくはそのときはじめてそのことを知った。
ぼくのいない世界で、女房は眠っているし、
友人や知り合いの人たちも、
偲んでいるにしても忘れているにしても、
ぼくがいない世界に生きているのだ。
楽しく遊んだりしているんだろうな。
さみしいなぁ、と。
おれも混ぜてくれよ、といっても、
死んでしまったんじゃどうしょうもない。
さみしいなぁ。
でも、そのときからだったかもしれない。
「さみしさ」は、もう
人間には付き物なのだ。
逃げようとしても、避けようとしても、
人間にくっついているものなのだと、
わかったような気がしてきたのだった。
「さみしさ」を好きになることについて、
ぼくはまだ入門したばかりの新人だけれど、
まだまだこの先も、楽しんでいくつもりだ。