ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「私」を組み込んだ考え。

「私」というものを、
まったく別の場所に置いたままでも、
ものごとを考えることはできる。

この世界的な不況はどういう理由で、
どうなっていくのかについてだって、
日本という国とある国との関係をどう考えるかだって、
文明の進歩とその行き詰まりについてだって、
知的所有権のこれからについてだって、
若者の結婚離れについてだって、
じぶんのことと関係なく、いくらでも語れそうだ。

世の中のたいていの問題は、
ひょっとしたら考えなくても済むことばかりだ。
でも、いざ考えることになったら、
どこかに「私」というものが関わることになる。
ちょっとでも「私」と、その問題の関わりが
でてくるはずなのだと思う。
どんなきれいな考えが述べられたとしても、
「私」がその逆のことをやりそうだと思ったら、
そこで、そのきれいな考えに、
「私」なりの補正が加わることになる。

きれいでなくても、まちがっていても、
「私」を通過してでてきた考えは、生きている。
どれほど正しそうに見えても、
「私」と無関係に語られる「正解」は、
ただの「データ」であるというだけのものだ。
最初も言ったように、
「データ」の出し合いでも、
いくらでも討論のようなことはできる。

「こんなことを私は言っているけれど、
 私自身は、それを守れるだろうか」
という疑いがでてきてしまうことで、
「私」を組み込んだ考えというのは、
ある種の弱さを持ってしまうかもしれない。
しかし、その弱さを含みこんで、
その弱さをどうとらえていくのかという
もうひとつ問題を増やすことこそが、
考えるということだと、ぼくは思うのだ。

「私」は、どこに行ってしまったのか。
そんな思いは、きっと、おおぜいの人のなかにある。
「私」の組み込まれていない発言や表現が、
人のこころを打つことが少ないのも、
みんな無意識にでもわかっている。
実は、あちこちで失われている「私」を、
待望している「私」たちも、多いのだと思う。

思い出すのは、『人志松本のすべらない話』という企画だ。
サイコロを振って出た名前の笑いの芸人が、
「すべらない(つまらないと思われない)話」をする、
というルールで番組は進行していくのだけれど、
ほんとうは「すべらない」というのは結果なのであって、
企画の中心は「すべらない」ために、
どういう話をするのかという話者の工夫である。
ほんとうに「すべらない」ためには、
「アメリカで有名な話なんですけどね」などという
単なる情報ではダメに決まっているのだ。
話し手の、「すべらない」ための必死さが、
そのまま結果につながるのだ。
それを感じているお笑いの芸人たちは、
どうしたか、というと‥‥。
表現のなかに、徹底的に「私」を取り込んだ。
ドキュメンタリーの手法で、話を構成したわけだ。

実話です、と。
「私」が、ここにいました、と。
すべて固有名詞付きでお話します、と。
誇張や語り口の演出は、芸として認めてください、と。
フィクションの笑いの、まったく逆をやったのだ。
「すべらない」ような事故(ネタ)が、
「私」の生活のなかになかったら、語れない。
実家がどれだけ「すごい」ものだったか、とか、
若いときに「私たち」が、どれほどバカだったかとか、
ほんとのことを語って笑いをとるという芸を、
こんなふうに方法論化してしまったことは、
いままであったようで、実はないのではないかなぁ。

いまの時代に笑いを職業にしている芸人たちは、
ある意味、最も感覚を鋭敏にしている人たちだ。
おそらく、昔の芸人さんたちのころは、
「笑わせられなかったらおしまい」
なんていう職業ではなかった。
おなじみの「おもしろい人」というだけでも、
職業として成立していたように思う。
しかし、いまの一部のお笑い芸人たちは、
なんだかもっと必死の匂いがする。
それが「笑い」というものの文化にとって、
いいことばかりでないとは思うものの、
すごいところに行っちゃってるなぁという気持ちで、
ぼくなんかは見ている。

いまの「笑い」の世界の先鋭な人たちが、
追いつめられたかのように、
一気に「私」を取り込んだ表現に走っていることは、
ちょっと悲しいけれど、すごいもんだと思っている。
もしかしたら、この人たちがやっていることは、
かつて鋭敏な感覚の文学者たちが、
日本型の「私小説」という表現を
生み出してしまったことと、同じなのかもしれない。

「私」の不在にいたたまれなくなったのか、
「私」をまるごと組み込まないと、
本気になれないという率直さなのか、
当事者でないぼくにはわからないのだけれど、
どちらにしても、
考えや表現のなかから「私」が失われている時代への、
覚悟の嫌がらせなのだろうと、ぼくには思える。

及ばずながら、ぼくがもっとゆるく
「ほぼ日」でやっていることも、
実はそんな気分があるのだろうと思う。
むろん、「笑い」の人たちが、
まるまる裸のドキュメンタリーの
登場人物になっていないように、
ぼくもパンツや下着はつけているつもりだけれど、
このくらいまでは「私」を見せないと、
なんにも通用しないのだろうな、という心構えはある。

「私」を一切入れなくても、いくらでもものは言える。
「私」のない表現だって、熱く語れる。
でも、それはやっぱり空々しいんだよなぁ。

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