いかにもとるにたらぬものの声。
2009-07-20
2009年の6月15日のこの『ダーリンコラム』に、
こんなことを書いた。
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<夜中に、「あさり」と。>
ちゃんと探したら見つかるのだろうけれど、
それを本気でやるには、
ちょっとめんどくさいのだけれど‥‥。
古今亭志ん生の落語のなかに、
海の中では近所に暮らしていた「あさり」だったかが、
後に魚屋かなんかで出合って、
「よ、どしたい」なんてあいさつするくだりがあるんだ。
「あさり」はしゃべりゃしないのだけれど、
志ん生という人は、そういう無口なやつらのせりふを、
ほんとにうまく声に乗せてくれる。
しゃべらないはずのものにしゃべらせたら、
志ん生の右に出るものはないね、
なんてことを言いたくて、
その例として、「あさり」の「どしたい」を、
人に聞かせたいんだけれど、
数ある志ん生の音源のなかから、
その部分を探し出すのは、なかなかむつかしい。
海で暮らしているときに
会ったことのあるまぐろとイカが、
鮨屋で再会したりするなんてことも、
絶対ないということもあるまい。
(後略)
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この「あさり」の「どしたい」は、
ぼくの記憶の海の底のほうにあって、
ゆらゆらと見えにくいのだけれど、たしかにある。
そういうものだった。
いつか、あの志ん生さんの声を探さなきゃなぁ、と、
ずっと宿題のように思っていた。
そしたら、これを読んでくれた方がメールをくれた。
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はじめまして、いつも読んでいます。
ほぼ日にメールを出すことがあるなんて
思わなかったのですが、
これは知ってるぞ。と思って出しました。
志ん生の落語のなかに、近所で暮らしていた
「あさり」が別々に獲られて
「よ、どしたい」と会話をする。
というお話が書かれていましたが
私が聞いた志ん生の噺では「ほたて貝」と
「はまぐり」でした。
「天狗裁き」のマクラで”縁”の話をしていて、
彼らがでてきました。
「ほたて貝、またハマグリにめぐり会い」
という句みたいのから始まって
最終的に煮物の中で出会うという。
そのときの彼らの会話が「よぉ、めずらしいなぁ」で、
久しぶりに会った友人に
”めずらしい”という言葉が出てくるのが
面白いと思ったので、すごく印象に残っています。
志ん生も同じ話を何度もやってるし
「あさり」のときもあったのかもしれませんね。
それにしても志ん生は人間以外のセリフが
すごく好きです。
田んぼの蛙が吉原に遊びに行くという話もあって、
それなんかは蛙が普通に
わかいし(若い衆)と会話をしていておもしろかったー。
日本人は鳥獣戯画以来、
動物を擬人化してしまうことに
抵抗がないのでしょうかね。
あっさりと受け入れてしまう。あっさり、と。
(すいませんつまらなかった)
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親切で、押しつけがましくなくて、
なんともありがたいメールだった。
ぼくの持っている音源から、『天狗裁き』を探して、
さっそく聴いてみた。
もう、まるまる、この人の言うとおり。
うれしいなぁ、こういうことって。
もうひと方、おいでだった。
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いつも拝読させていただいています。
本日(6月15日)の<夜中に、「あさり」と。>
に出てくる、
「あさり」の「よ、どしたい」に似たあいさつが、
次の演題のまくらで語られていました。
「風呂敷」(ザ・ベリー・ベスト・オブ志ん生 vol.11
昭和40年1月31日録音 東宝演芸場
販売・日本音楽教育センター)
ここでは、
「帆立貝とハマグリのめぐりあい」の話になっています。
「風呂敷」の他の音源を二つ聞いてみましたが
そちらには出てきませんでした。
探すのが面倒なのだけれど、
音源を確認したくなることがよくあって、
ご連絡しました。
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こちらは、ぼくの持っている『風呂敷』には、
入ってなかったのが、ご親切、ありがたかった。
あの志ん生さんの声を「いいねぇ」と思う人なのだから、
そういうある種の「もののあはれ」を
解する人に決まってるのだ。
あさりではなかったけれど、
ほたて貝にしても、ハマグリにしても、
ひろい海のなかの、
「とるにたらぬもの」の象徴みたいなものだ。
いや、アメフラシのほうが、とかイワシのほうがとか、
余計なことは思いつかないでよろしい。
この、いかにも「とるにたらぬもの」に、
声を与えているというのが、いいのだ。
むろん、志ん生だけが、
そういうものに声を与えているのではないだろう。
たまたま、志ん生という人が、
「とるにたらぬもの」の声を出し演じるのが、
好きだったのにちがいない。
だけど、その好きのこころには、
なんだか人間というものの、いいところがあるなぁ。
ぼくは、そう思う。
「とるにたらぬもの」とか、「敵」とかは、
あんまりしゃべるものじゃないのだ。
だから、無視もできるし、
殺したりさえもできるのだと思う。
もちろん、ほたて貝やらハマグリやら、
カエルやらタヌキやらが、
ほんとうに声を出すわけではない。
そんなことは、志ん生だって承知している。
それでも、ことばを発するのが
「こちら」ばかりになってしまうという不都合に対して、
バランスをとるかのように、
「あちら」の物言わぬ「とるにたらぬもの」さんたちに、
声を与えたくなるこころが、
ぼくは好きだなぁと思うのだ。
それは、ひょっとすると、
女性ファッション雑誌あたりからはじまった、
「部屋の小物たち」というふうな、
モノの擬人的表現にも通じるのかもしれないし、
また、なんでもかんでも人間のように扱うという
「幼児性」を批判する人もいるだろう。
だけれど、「こちら」のあまりの強さ、豊かさに対して、
「あちら」の重さを、幼児的にでも加えるということは、
けっこう悪くないことなのではないか。
あの、石川啄木の
「東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる」
を読んで、ふと思い出してしまったのだ、志ん生を。
「あちら」さまの、蟹の声が、
生きるのにいっぱいいっぱいの芸術家、啄木には、
聞こえてこないのだ。
まぁ、もともとが「我を愛する歌」だから、
蟹のことなどかまっちゃいられないのだろう。
しかし、志ん生の世界なら、
「やだなぁ、この男」くらいの声は、出すにちがいない。
「東海の小島の磯の白砂で
泣きぬれし男の
玩具にさせられ」(蟹)