聞くは、最高の仕事。
2010-01-25
また、じぶんへのメモをもとにして、
それを広げたものを、ここに書いておくことにした。
メモには、「聞くは最高の仕事」とあった。
‥‥。
「ほぼ日」をはじめるとき、
いろいろ考えたことのなかに、
「聞く」をもっと大事にしよう、ということがある。
よく見ろ、とか、ちゃんと見なきゃとか、
「見る」のほうはもう、
いまの時代の重要な感覚だということになっている。
いま現在、この文を読んでいることも、
「見る」をしているわけだし。
本を読むことだとか、
テレビや映画を楽しむことだとかも、
「見る」が前提になっている。
「目を放しちゃいけない」であるとか、
「じっと見ていればわかる」だとか、
仕事をしていくうえでも、
「見る」の大事さはいつでも言われている。
「見る」は、いかにも主体的な行為で、
「見られる」対象にはたらきかけるという感じです。
それにくらべると、「聞く」のほうは、
「ちゃんと聞け」なんて具合で、
主人公は相手の側で、
「聞く」ほうの人はそれに対して受動的にいるだけ。
一見、なんにもしてないようにも見えます。
耳はまばたきもしないしね、
よく聞いているからといって輝いたりもしない。
だから、どうしても「聞く」って
たいしたことないと思われがちなんだよなぁ。
だけどね、「聞く」っていうのは、
もう、ほんとにすごいことなんだ。
しかも、誰でもできる。
企業とかに勤めはじめたばかりの新人だったら、
とにかく人の言うことをよく「聞く」だけで、
実にいい仕事をしていることになるんだよ。
「言う」人は、聞かれたいから言ってるんだからね。
ちゃんと聞いているかそうでないか、
見えるような証拠もないだけに、
よく「聞く」か、いいかげんに「聞く」かは、
自己申告、自己判断なんだよ。
マナーに近いものなのかもしれない。
だけど、よく「聞く」人と、
いいかげんに「聞く」人の差は、
あきれるほど、どんどんと開いていくものなんだ。
人っていうのは、「聞く」人に向かって話すからね。
こいつは「聞く」な、と思えば、
その人のために、どんなことでも話すようになる。
そういうものなんだ。
ことばそのものを「聞く」だけじゃなく、
ことばの奥にある「気持ち」だって、
「聞く」ことができるようになる、だんだんとね。
やがては、直接にことばの素になるようなことまで、
「聞く」ことができたりもするんだ。
たぶん、あの果物のりんごにも聞けるし、
魚の言いたいことも聞ける、石ころでも聞ける。
目に見えないことのほうが、見えることよりも
たっぷりと豊かなのかもしれないと、
「聞く」ことをくり返しているうちに、
わかるようになるかもしれない。
「聞け。とにかく聞くことだ」。
一生懸命に聞く、馬鹿にしないで聞く。
わからなくても聞く。わかっていても聞く。
知ってることでも聞く。聞くまでもないことでも聞く。
おもしろくないことも聞く。
黙っているものからも聞く。
視線を向けて聞く。よい姿勢で聞く。
耳をすませて聞く。
聞くことが、なによりの仕事だ。
だれでもできるのに、できている人は少ない仕事だ。
見ることは愛情だと、かつてぼくは言ったけれど、
聞くことは敬いだ。
聞かれるだけで、相手はこころ開いていく。
聞いているものがいるだけで、相手はうれしいものだ。
それは、ずいぶん大きな仕事だと思わないか。
すごいものなんだよ、「聞く」ことは、
しっかり聞いていれば、
「言う」は呼吸をするように自然に出てくる。
「見る」についても、
たぶん「聞く」の補助としてじょうずになる。
そうだ、「聞く」は最高の仕事だし、
「聞く」こそが人生なのかもしれないぞ。
‥‥と、ここまで、読んでくれた人は、
目を使って聞いてくれたということになるのかな。