ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

聞くは、最高の仕事。

また、じぶんへのメモをもとにして、
それを広げたものを、ここに書いておくことにした。

メモには、「聞くは最高の仕事」とあった。

‥‥。

「ほぼ日」をはじめるとき、
いろいろ考えたことのなかに、
「聞く」をもっと大事にしよう、ということがある。

よく見ろ、とか、ちゃんと見なきゃとか、
「見る」のほうはもう、
いまの時代の重要な感覚だということになっている。
いま現在、この文を読んでいることも、
「見る」をしているわけだし。
本を読むことだとか、
テレビや映画を楽しむことだとかも、
「見る」が前提になっている。

「目を放しちゃいけない」であるとか、
「じっと見ていればわかる」だとか、
仕事をしていくうえでも、
「見る」の大事さはいつでも言われている。

「見る」は、いかにも主体的な行為で、
「見られる」対象にはたらきかけるという感じです。

それにくらべると、「聞く」のほうは、
「ちゃんと聞け」なんて具合で、
主人公は相手の側で、
「聞く」ほうの人はそれに対して受動的にいるだけ。
一見、なんにもしてないようにも見えます。
耳はまばたきもしないしね、
よく聞いているからといって輝いたりもしない。
だから、どうしても「聞く」って
たいしたことないと思われがちなんだよなぁ。

だけどね、「聞く」っていうのは、
もう、ほんとにすごいことなんだ。
しかも、誰でもできる。
企業とかに勤めはじめたばかりの新人だったら、
とにかく人の言うことをよく「聞く」だけで、
実にいい仕事をしていることになるんだよ。
「言う」人は、聞かれたいから言ってるんだからね。
ちゃんと聞いているかそうでないか、
見えるような証拠もないだけに、
よく「聞く」か、いいかげんに「聞く」かは、
自己申告、自己判断なんだよ。
マナーに近いものなのかもしれない。
だけど、よく「聞く」人と、
いいかげんに「聞く」人の差は、
あきれるほど、どんどんと開いていくものなんだ。
人っていうのは、「聞く」人に向かって話すからね。
こいつは「聞く」な、と思えば、
その人のために、どんなことでも話すようになる。
そういうものなんだ。

ことばそのものを「聞く」だけじゃなく、
ことばの奥にある「気持ち」だって、
「聞く」ことができるようになる、だんだんとね。
やがては、直接にことばの素になるようなことまで、
「聞く」ことができたりもするんだ。
たぶん、あの果物のりんごにも聞けるし、
魚の言いたいことも聞ける、石ころでも聞ける。
目に見えないことのほうが、見えることよりも
たっぷりと豊かなのかもしれないと、
「聞く」ことをくり返しているうちに、
わかるようになるかもしれない。

「聞け。とにかく聞くことだ」。
一生懸命に聞く、馬鹿にしないで聞く。
わからなくても聞く。わかっていても聞く。
知ってることでも聞く。聞くまでもないことでも聞く。
おもしろくないことも聞く。
黙っているものからも聞く。
視線を向けて聞く。よい姿勢で聞く。
耳をすませて聞く。

聞くことが、なによりの仕事だ。
だれでもできるのに、できている人は少ない仕事だ。

見ることは愛情だと、かつてぼくは言ったけれど、
聞くことは敬いだ。
聞かれるだけで、相手はこころ開いていく。
聞いているものがいるだけで、相手はうれしいものだ。
それは、ずいぶん大きな仕事だと思わないか。

すごいものなんだよ、「聞く」ことは、
しっかり聞いていれば、
「言う」は呼吸をするように自然に出てくる。
「見る」についても、
たぶん「聞く」の補助としてじょうずになる。

そうだ、「聞く」は最高の仕事だし、
「聞く」こそが人生なのかもしれないぞ。
‥‥と、ここまで、読んでくれた人は、
目を使って聞いてくれたということになるのかな。

関連コンテンツ

今日のおすすめコンテンツ

「ほぼ日刊イトイ新聞」をフォローする