ダーリンコラム

糸井重里がほぼ日の創刊時から
2011年まで連載していた、
ちょっと長めのコラムです。
「今日のダーリン」とは別に
毎週月曜日に掲載されていました。

「わからない」の時間。

こう、なにかっていうと「教育がわるい」って、
そういうのじゃないんだけどさ。
さらに、「学校の勉強なんかダメだ」と
言いたがる人間でもないんだけれど、
根本的なところで、
ひとつだけ言いたがることがあるんだ。

言いたいっていうより、
気がつくと、じぶんが「言いたがってる」って
わかることがある。
どうやら、おれは、それについては
ずっと言いたがってるな、ということだね。

あんまり簡単なんで、
あっけないんだけど、
「先生も知らない」ことをやれないかな、学校で。
それだけ。

「先生もわからない」ってことを、
いっしょに考えていく。
そういう授業をもっとやれないものかなぁ。

たし算だの引き算だのについて、
「先生もわからない」はずはないのだけれど、
ほんとうは、わからないことだらけだと思うんだ。
でも、学校のなかでは、
いちおうというか、建前としてというか、
「先生も知らない」という場面はほとんどない。
「先生も知らない」ようなことは、
学校でやることの枠外なのかもしれない。

しかし、社会では、
「わからない」ことだらけなんだよな。
ごくふつうの日々に、「わからない」の山だ。
「このリンゴ、どっちがおいしい?」なんてことも、
「どうやったら、もっとお客さんが来てくれるか」とか、
「よりかっこいいクルマって、どういうもの?」だの、
「おもしろい映画をつくるには?」だの、
「みんながよろこぶ会社のしくみは?」だとか、
ひっきりなしに「わからない」と取り組んでいる。
先生に訊けば答えがわかる、ようなことはないんだな。

すでに「わかっている」ことについて、
無数の情報を知っていれば、
それはそれでなにかの役に立つのかもしれないけれど、
それよりも「わからない」の答えを出すことのほうが、
求められているものなのだ。

大人になってからやることは、
たいてい「いくら資料を持ち込んでもいい」し、
どれだけ「他人の力を借りてもいい」し、
ある程度は「いくら時間を使ってもいい」し、
さらに「予算だって用意される」のだ。
学校でのルールと逆だとも言える。
学校では、資料を持ち込んではいけないし、
じぶんひとりで解かなくてはならないし、
制限時間内でやらなくてはいけないし、
予算など一円もついてないことがほとんどだ。
‥‥そこまで逆である意味はないだろう?

学校で、生徒も先生もいっしょになってさ、
「わからない」の時間を、やらないかなぁ。
条件は、ひとつ、
「先生もほんとにわからないこと」をテーマにして、
しつこく授業を続けていく。
むろん資料も探して、専門家の意見とかも聞いて、
1年かけてやっていってもいいと思うんだよね。
小学校は小学校なりに、中学は中学なりに、
高校は高校なりに、「わからない」の授業って、
できると思うんだよなぁ。

いまは、特に社会のほうにも
「わからない」が格別に大盛りだから、
スタートするにはいい時だと思うよー。
こういう授業をやってきた生徒が、
社会に出てくるようになったら、たのしいだろうなぁ。

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