沈黙についてのいくつかの断章。
2010-07-12
なんだか、ツイッターとつきあっていたら、
想像していたとおり、ツイッター癖がついてしまった。
もしょうがないので、
「断章」のふりをして、ただ並べることにした。
英語を公用語にしたら、
母国語だけでも拾いきれなかった「沈黙」が、
ますます名づけられもせぬままに、
どんどん増大していって、
「なんだかわからないけれどやりたくない」
というようなことが、蔓延していくんじゃないか。
「沈黙」は、空っぽのことじゃない。
人が生きているかぎり、たえず生まれている感情や、
感覚や、発明や、発見や、思想や、
もっとわからないなにかの泉みたいなもの。
ことばの巧みな人間に、いかにも正当な取引として
なにかを迫られても、臆してはいけない。
誰もが「沈黙」をもって答えることができるからだ。
「断る理由を語ってください。そうでないとフェアでない」
と、ことばの巧みな人間は言うものですが、
あなたの沈黙こそが、答えなのだ。
どうすることもできなくなったときに、
「逃げる」という行為は、
「沈黙」の一種なのだろうか?
逃亡の末に、さらなる「沈黙」が生まれて、
やがてなにかが見えてくることもあるのだが。
「沈黙」は、実力行使と結びつくと暴力になる。
だから、「もの言う社会」で、
「沈黙」は危険視されやすいのではないか。
「黙っていたらわからない」と言われるたびに、
「黙っているじぶん」が否定されていく。
やがて、少しだけ「黙っていない」ようになって、
「沈黙」も大事にせず、「口下手」な人間ができあがる。
宇宙は「沈黙」している。
神も「沈黙」しているらしい。
「沈黙」は、沈黙以外を従えて、
無から無へと進んでいく。