ITOI
ダーリンコラム

<仕事をするということについて>

前回の「恋はハートで。仕事はマジで!」の原稿、
受け取ったときに、「おっ、息が荒いな」と思ったが、
若手の働き盛りの人がこれくらいのこと考えているのは、
元気でよろしいと思って、翌週の日曜日に掲載した。

ぼくの気持ちとしては、こんなふうだった。
筆者のSさんも、もちろん開発途上のビジネスマンだし、
いずれ、「あのころは若かったですねぇ」なんて話を、
いずれ一緒にしたいもんだと思っていたわけだ。
だけど、あれに怒っているひとからのメールを
数通受け取った。なかには、「連載を中止してください」
という意見さえあった。なにを言ってるんだ?!
私立学校のPTAじゃあるまいし。

『糸井重里様、あなたの意見も聞きません。
どうせ「そんなに熱くなるなよ」的な意見しか
期待できませんので』
だって?? 馬鹿にしてるなぁ!
ぼくはそんなに「やさしい」人間じゃない。
キミがもう二度と来ないでくれれば、それでいいだけだ。

いま、働くことと、幸福について、
みんなが必死になって試行錯誤している時期なんだよ。
いいかげんにやっている人の失敗をカヴァーをするために、
泣きながら徹夜しているOLの話も、
同じ時期に届いているのだ。

懸命に仕事をすることと、
いわゆる世間で考えられている幸福な生き方とは、
矛盾することが多い。
自分自身が、「働くのがブームなんです」とか
言い回っているけれど、これは、
「働くこと」が「歓びや愉しみ」と両立しないものかと、
あえて「流行りごと」のように表現しているわけで、
家族にも、周囲にも、自分自身にさえも、
かなりの犠牲を強いているはずである。
このあたりのことについては、
折にふれて少しずつ書いたりしてきたのだが、
もうちょっとストレートに、
まとめて書く必要を感じていた。
Sさんの原稿のおかげで、めんどくさがらずに、
そのことを書こうという気持ちになった。

実際、「ほぼ日」を企画してからのぼくの毎日というのも、
普通に考えたらひどいものだ。
「イトイさんは、やる気があるんだかないんだか
わからないところが持ち味だったのに、
働くのが流行なんて言われちゃ、つまんないです」と、
たまに言われたりもする。
睡眠も細切れだし、家でごはんを食べる回数も減ったし、
知人たちへの不義理も返せないほど増えた。
覚悟して飛び込んできたとはいえ、
スタッフたちの犠牲だって、並みではないと思う。
本を読む時間をとることがむつかしくなったのも、
かなり痛いような気がする。
(本を買うほうは、
インターネットのおかげでラクになったのにね)

しかし、ぼくの働き者ぶりなんて、
ほんとはたかが知れている。
まだまだインチキ臭いとさえ言える。
みんなをたのしませるためにつくる「映画の監督」なんて、
朝の4時だ5時だっていう時刻から、
誰よりも早く現場に到着していて、
真夜中に撮影が終わってから、翌日のコンテを検討して、
寝たとおもったらすぐに翌朝を迎える。
役者やカメラや美術や音楽のスタッフが
全力を出せるように、いつでも気を配っている。
眠い眠いと言いながら早朝に集合する俳優やスタッフは、
その前の時間に現場に来て待っていて、
「おはよう」と言ってる鬼監督が、
なんのために早く来ているかを考えないから、
「こきつかいやがって」と不平を言ったりもするだろう。
そりゃ、その監督の家族だってワリ食ってるだろうさ。
それでも、文句を言ってたスタッフたちも、
自分が監督やプロデューサーになってはじめて、
「鬼」の気持ちがわかるのだと思う。
ぼくも、早起きってだけで、イヤがっていたもんねー。

スポーツファンは、よく、ヤジをとばす。
「ちんたらやってんじゃねぇよ」とか、
「全力疾走しなきゃ!」とか、
「やる気ねぇんじゃねぇの?!」とか、軽く言い放つ。
真っ赤になって怒鳴ったりもする。
選手もスタッフも言われることになれているし、
とんでもなく過酷な修練を続けて行けない選手は、
現実的に活躍できないどころか、試合出場もできないから
歯をくしばったり眠れぬほど考えたりしながら、
毎日を生きている。
とてつもない才能を持って生まれた選手だって、
その山だしの力持ち程度の「天分」で、
選手を続けていけるようなことはありゃしないのである。
ヤジをとばしているホワイトカラーが、
自分のプロとしての試合場で、
ほんとに「ちんたらやってない」と言いきれるだろうか?
そう言うと、
「あいつらは、プロとして高給とってるんだから当たり前」
とすねたような反論をする者もいる。
さみしい意見だと思う、ぼくは。
自分をゲームボードから除外して考えれば、
いつだってコワイものなしである。
(あ、缶コーヒーのCMにあったね、これ)
むろん、テレビ観戦や球場で、ぼくもヤジっている。
しかし、そのヤジが実は自分にはねかえってくることくらい
知っているつもりだ。
だから、よくやっている選手に惜しみなく送る拍手は、
「そんな拍手をもらえるようなプレイをしてみたいなぁ」
という、ぼく自身の夢への拍手でもあるわけだ。
観客席にいるということは、
「王様である」という立場を保障するわけではない。

「自分の24時間」をささげつくしたヒーローの活躍する
「自己犠牲型ドラマ」を
ぼくらは大喜びで観て味わっている。
しかし、それは、なかなか困難なことだと知っているから、
同じことを自分でもやろうとは思わない。
「その時がくれば、やる」と言って、
ひまつぶしや、退屈しのぎに精を出す。
人間だったら、これも当たり前のことだ。
それはそれで、生き方だ。
なんの努力も工夫もしないで、
キリギリスをやっていられるなら、それでいい。
邪魔をしようとも思わないし、
そういう友だちがいたらおもしろいなぁと本気で思う。
だが、よっぽどの財産があるわけでなかったら、
キリギリスごっこは簡単にはできない。
森茉莉さんの貧乏が美しくさえあるのは、
貧乏でもキリギリスをやり抜こうという決意が、
そこにあったからである。
決意と言うより、運命というほうが近いのかもしれないが。

ぼくは、武士でなく町人だから、
「食わねど高楊枝」なんてポーズもとらないし、
天下国家のお役に立とうと
命を賭けるつもりもさらさらない。
ほんとうのことを言えば、
適当に機嫌良く「ご町内の人気者」でいられれば、
すっかり満足な小人物のひとりなのである。
しかし、ほんとに、いまという時代の危機感は、
町人であるぼくでさえも感じている。
できあがった安心のシステムにあぐらをかいて、
明日も安心であると笑っていられるような人は、
この時代には存在していないはずだ。
芸能界やスポーツ界の栄枯盛衰のドラマを、
みんな他人事のように冷笑しながら見ている。
それを倫理的にいけないというつもりは全くないけれど、
「あの人は、いま?」でとりあげられるのは、
自分自身でもある。その可能性を忘れるわけにはいけない。
世界のゲームシステムが大転換をはじめている時代に、
前の時代の「幸福観」にこだわっていたら、
練習嫌いなスポーツ選手とおなじような運命を
たどることは目に見えている。

仕事に追われて、家族との時間をとれない夫や父が、
毎日定刻に帰宅して、いっしょにごはんを食べながら、
テレビのバラエティー番組を観たりするようになったら、
はたして家族思いのいい夫と言われるのだろうか?
かなり疑わしいんだよなぁ。
「いまは、なかなかタイヘンな時期なんだよ」ということを
家族にちゃんと話して説得できるお父さんと、
それを理解できる妻や子供たちがいたら、
ぼくにはそのほうがかっこいいと思える。

自分自身が、つまり「私」がこの世に生まれたことを、
「ああ、よかった」と思えるためには、
けっこう真剣にやっていかなきゃならないのだと、
こんないい年になってから、ぼくは思っている。
そのほうが、おもしろいしね。
Sさんの表現とちがうのは、仕事していることを、
やっぱりぼくは「たのしい」と言っちゃうことくらいかな。
あとはかなり似たこと考えてますよ。
アイドル業のともだちや、プロのスポーツ選手に悪いもん。
あいつらほんとに、あきれるほど一所懸命だもん。
それを前提にしてのことですが、
言い忘れちゃいけないのは、
「じょうずにさぼったりするのも、
修練のメニューにある」わけでしてね、
そっちのセンスの磨けない人は、
長持ちしませんぜってことかね。

整理して原稿にすると大仕事になりすぎそうなテーマだから
読み返さずに、えいやっと掲載してしまいましょう。
こういうことができるから、
ぼくも「ほぼ日」も、なんとか保(も)ってるんだよねー。

1999-03-29-MON

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