<なんでそうなるの?>
去年の今ごろだったなぁ。
サッカーのワールドカップをやっていて、
毎日サッカー観ていたっけなぁ。
うちのアホ娘が、近所の「もんじゃ焼き屋」で、
「ともだち大勢で集まって、
いっしょに応援するんだ」って言ってんだっけ。
その試合を、「ほぼ日」の鼠穴でも
みんなで集まって観ようということになってたから、
娘を誘ったら、そういうことだったんだ。
じゃあってことで、その約束の時間まで、鼠穴で観ていて、
そこからともだちの待っている店に行けばいいじゃん
という段取りになったのだった。
娘、鼠穴という名の東麻布から、広尾の店まで、
夜道を走ったね。もう、走れメロスのように。
で、あとで聞いたら、「誰も来なかった」んだってさ。
そういうことは、大いにあることだ。
ぼくは、いくつかのことを言ったっけ。
「約束は、しばしばやぶられるものなり。
それは、キミがどれだけ一所懸命に約束を守ろうと
努力したかに関わらず、やぶられる。
だから、ワタシがこんなに苦労したのにと
言ってはいけない。
おそらく、これから、今回の逆の場合もありうる。
できるかぎりキミは、約束を守ったほうがいい。
特に遊びの約束はナ」
その場の乗りで決まったことというのは、
いつのまにか消えてなくなりがちである。
その程度にいい加減なのが人間のふつうの姿だと思う。
だから、簡単に責めるべきことではない。
純粋な人には、許せないことかもしれないが、
ごく普通のことなんだから、そのことを知っているべきだ。
ヒトの日常は「法」で動いているわけではないから、
わりあいにいい加減にできている。
契約書の必要なビジネスではないから、
厳密な損得ではヒトは動かないし、
とんでもない理由で何かが決定したりする。
その<なんでそうなるの?>ということがいっぱいあることを、
知っているほうが、ぼくはいいと思う。
人生の先輩方が、恋愛をすすめたり、
その多くの結果である「失恋」を奨励したりするのは、
「リクツ」の外側の大きく暗くまたおもしろい深遠を、
若者たちに教えてやろうということだったのだろう。
その相手を「より愛している」ほうが、
相手の心を射止めるとはかぎらない。
他の場面でのその人の価値が、
その相手にも価値であるとはかぎらない。
そういうことを、紙と鉛筆を使って教えることは難しい。
やってみて、失敗したり成功したりするしかないのだ。
理不尽をおぼえるのには高いコストがかかる。
彼(彼女)は、あなたの優しさも利発さも、
よくよくわかっていながら、
「おっぱいの体積」の問題ごときで、
あなたを選ばなかったりもする。
さらには、その理由に無自覚だったりもする。
シンジラレナーイ!
彼女や彼が、恋愛をする相手は、
「よくわからないけど、あなたじゃない」という場合が、
多々あるし、その理由を説明する義務は彼女にはない!
あなたが自由であるように、相手も自由なのだ。
あなたが相手のことを思って
命も全財産も投げ出すといっても、
相手はあなたを嫌いでかまわない。
・・・・というような、当たり前の法則を憶えるためには、
時間も労力も金銭も、たっぷり使う必要がありそうだ。
人を信じるな、ということがテーマなのではない。
言いたいのは、きっと、
自分が信じるように相手から信じられること、
相手から信じられているように、自分が相手を信じること、
これは、どちらもとても難しいことなんだということだ。
さらに、自分ってやつは
自分が信じているほどのやつじゃないんだってことも、
覚えておかなくてはいけない。
理不尽と理について書くつもりで書きはじめたんだけど、
信頼と愛についてみたいになっちゃったなぁ。
ちょっと小憎いオチを付けておくとすれば、
ぼくが読者を思っているほど読者はぼくを思ってないし、
ある種の読者が思っているほどぼくは読者を思っていない。
おおっ! 過去のどんなメディアが、
ここまで単純でな真実を言えたことだろう?(笑うけど)
「ほぼ日」万歳!
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