<「多忙は怠惰の隠れみのである」ということについて>
高校時代の現代国語の先生は、ほんとに素敵だった。
若い時は編集者をしていて、
太宰治の書簡集にその名前も出てきていたから、
知っている人には知られた人だったのだろう。
亀島貞夫先生っていうんだけれど、
名前書いたりすると嫌がるかなぁ?
いろんな生徒に、たくさんの影響をあたえた人だと思うが、
ぼくは、単なるお調子者の、出来の悪い生徒だったから、
いわゆる不肖の弟子の一人なんだろう。
それでもそれなりに、
先生に教わったことを時々思い出して、
自分にチェックを入れたりしているのだから、
いい先生って、すごい影響があるものだと思うねぇ。
授業の時に言った言葉のなかに、
「多忙は怠惰の隠れみのである」というフレーズがあって、 この意味がよくわからないままに、妙に気になった。
だって、「すっごく忙しくしている」ということが、
「さぼってる」ことの隠れみのだっていうんだから。
すっごく忙しくしているって、
ちっとも怠けていることじゃないだろう?
いわゆる逆説的な表現で、ナニカを言ってるわけだが、
この言葉の言わんとしていることが、わからないわけだ。
高校生だったからというだけじゃない。
その後もわかったような気になっていたが、
たぶん根本的にはわかっていなかったのだろう。
いまになって、やっと、理解できてきたようにも思う。
「多忙」な時っていうのは、
現実的な問題がいっぱいあって、
それを現実的に解決したり、
解決しかかっていたりしている状態だ。
そういう時というのは、達成感もあるし、幸福感もある。
ちっぽけなヒロイズムも満足させてくれるかもしれない。
だが、そういう時に欠けていきやすいものがあるのだ。
それは、おそらく「なぜ」という疑問とか、
おおきな視野とか、人間の感情とか、
なにかすぐには役に立たないような、
それでいて大事なことばかりなんだと思うのだ。
教養主義的な意味で言うのではないけれど、
「哲学」に関わるような問題が、
忙しいときにはすっぽり抜け落ちていることが多い。
「それどころじゃない」だったり、
「そんなこと言ってられない」だったりという決まり文句で ひとりの人間として考えていたさまざまな問題を、
放り出してしまうようになる。
いや、役に立つ、現実の見方にしても、
「いま、うまくいってる」ことに甘えてしまって、
次にどうなるかという「動き」のなかに身を置くことが、
できなくなってくる。
そういえば、元・野球監督の藤田元司さんが、
「調子いいですねぇ」とか連勝中に言われると、必ず、
「いいときに悪い芽が育っているからねぇ。
いまのほうが怖いんだよ。
勝っているだけに、そいつを見つけだすのが、
なかなか難しいんだよ」と答えていた。
いまの「ほぼ日」も、こりゃもう、
はっきりと多忙でありまして。
ほんとによくやってるとは思うんですよ、みんなが。
でもね、怠惰の隠れみのになってるわけだ、現在の多忙が。
そうならないように目を覚ましているつもりなんですが、
先週は、これはイカンなということもいくつかあったし。
忙しくても、疲れていても、
怠惰にならないように、やっていきたいと思います。
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