ITOI
ダーリンコラム

<飽きるということ>


あいも変わりませず、だらだらと、
思いつくままに書きましたので、
お覚悟のうえ読みすすめてくださいませ。

ずっと、どう考えていいかもわからなくて、
ずううっと考えてづけてきたことのひとつに、
「飽きる」というあたりまえのようなことがある。
「飽きる」ということの正体が、
どうにも説明できないし、
どういうふうに考えていいかもわからないのだ

小さい頃から、ぼくは飽きっぽいこどもだと言われた。
しかし、そうでもないよという面も、
たくさんあることを自分では知っている。

飽きると言うことの悲しさを知ったのは、
文鳥を飼ったときだった。
二十歳をちょっと過ぎた頃だったかなぁ。
なにか部屋のなかに生き物の気配が欲しくて、
文鳥を飼ったのだった。
お定まりの飼い方をして、
そのうちに水をやったりエサを代えたり
掃除をしたりする回数が、徐々に減っていって、
飢え死にをさせてしまったのだ。
エサになるヒエだかアワだかの粒が、
中身の部分がなくなっていていても
カタチのままエサ入れに残っていて、
「まだあるわ」と自分勝手に考えていたのが、
原因だった。

明らかに殺したのはぼくだ。
死なせたというよりは、殺したという感じだった。
その時に、反省しつつ考えたことがあった。
「愛情とは、見ることだ」と、思ったのだ。
だんだん、愛情が薄くなると、対象を見なくなる。
文鳥をあの頃、どのくらい見ていたのか考えれば、
殺して当然だったと思う。

なぜ、見なくなったのか。
それは、飽きたからなのである。
人間に飼われている生き物は、人間に飽きられたら、
そのまま死んでしまうしかないのだ。
痛いことを知ったのだけれど、
ぼくは「では、何故飽きたのだろう」ということを
それ以上考えられなかった。
自分自身の幼児的な「飽きっぽい性格」のせいに
するしかなかったのだ。

その後も、なんども「飽きる」ということについて
考えさせられた。
特にギャグマンガの作者たちが、
人気のピークを迎えた後に、
だんだんと衰退させられていくのをみるたびに、
なんだか理不尽だなぁとか、大衆って残酷だなぁと
自分をも含めた「飽きる人間」というものの
怖さを考えたのだった。
だって、そのマンガそのものは、ちっとも
つまらなくなんかなっていないのに、
みんなが飽きたといって「見なくなる」のだ。

おおぜいの人間を相手にするコミュニケーションを
仕事にしている身としては、
その問題に、正面からでも斜めからでも、
立ち向かわなくては行けないことはわかっていた。
たぶん、自分自身の無意識の戦略としては、
受け手のみんなが飽きる前に、
自分が飽きてしまえば、
「見られなくなって殺される」という袋小路からは
逃げられるだろうという方法をとっていたのだろう。
それも、いま思えば、そうしていたようだってくらいで、
よくわかっちゃいなかったんですけどね。
「惜しまれて引退」に、プロの人たちが
あんなにこだわろうとするのも、彼らのこころに
「死にはする。殺されはしない」という思いが、
あるのだろうと想像する。

誰だって、見られなくなって
殻だけのエサをあてがわれて飢え死にするような
文鳥になりたくはないのだ。

しかし、ほんとうにこの問題を考えることが
難しいのは、
文鳥にしてもギャグマンガ作家にしても
力士やプロ野球選手にしても作家にしても
イラストレーターにしても・・・
彼らの存在や作品の内容は、
そんなに目に見えるほどの変化はしていない
ということがあるからだ。

この「ほぼ日」だって、
内容はますます充実してきたところで、
「昔のほうがよかったね」と言われてしまうのは、
ある意味では目に見えている。
飽きられることについて、
恐れていたら、いまが苦しくなるし、
つい「とんがったこと」や、
「目新しいこと」ばかり狙って
自分のやりたいことのない表現をするようになる。
そうかといって、
「こだわり」とか「独断と偏見」を
積極的に売り物にするようなことは、
自分たちの呼吸を止めることに等しいから、
少なくとも、ぼくはいやだと思っている。

「飽きる」というどうしょうもない化け物について、
たとえ間違っていてもいいから、
ある解釈がないと、
ほんとうに大事なことは
やり遂げられないのではないかと、
切実に考え続けてはいたのである。

ところが先日、急に、
「考えすぎないで、
小学校の足し算や引き算のように問題を立ててみては
どうだろうか」と思いついたのでしたー。

で、シンプルに整理してみたら、
「飽きるとは、受け取れる情報が尽きること。
あるいは、発信している情報を受け取ろうとする
動機が受け手のほうになくなること」
という、説明ができると気づいた。
ついでに、めずらしく辞書ではどうなっているのか
調べようと『新解さん』にお訊ねした。
『十分満足する(して、
それ以上続けることがいやになる)』
と記されていた。
うん、こっちのほうがこころに響くけれど、
問題解決のためには、ぼくの説明のほうが役立ちそうだ。

物事を情報のかたまりととらえて、
そのやりとり(流通)が、ストップした状態を、
「飽きる」と定義しているのが、
ぼくのプリミティブな説明である。

その考え方をすると、
死んでしまった文鳥は、
「少な目の情報をもったやつ」で、
「対象から多くの情報を読みとる力量のない」男
(つまり若き日のぼくですね)との、
情報流通が途絶えた時に、死んだ。

お互いに「飽きたなぁ」と思いあっている恋人たちは、
「手持ちの情報」を出し尽くしてしまって、
読みとらせることができなくなっている状態にある。
つまり、読まれるべき情報を増大させてなければ、
かならず、こういう日は来るというわけだ。
あるいはまた、たっぷりの手持ち情報を含んだ男も、
その情報をなくてもいいと考えている女にとっては、
出し尽くしているのと同じに見えるから、
やっぱり飽きられる。逆も、おなじ。

飽きるという「情報流通の停止」を防ぐためには、
情報の送り手と受け手とが、
協同的に情報の生産をしていかなければならないだろう。
文鳥には、それは難しそうだ。
だから、
『文鳥は、成熟していないオレに飼われた時点で
既に死への道のりを歩んでいた』とも言えるのである。

この頃多い「できちゃった婚」なども、
この考え方でよくわかる。
おたがいに情報の流通が停止するおそれを感じていて、
一生いっしょにいたら飽きるに決まっていると、
結婚を決意できなかった男女が、
『日々変化する情報源』としてのコドモを
協同で生み出してしまったために、
飽きない理由を見つけてしまった、
とも言えるではないか。

そういえば、恋人や夫婦や、会社などが、
いっしょに旅行に行くのも、
たがいに発見するべき情報を増加させる方法だ。
手持ちの情報を、出し尽くすということは、
「いっしょに何かする」ことで、
かなり防げると、人類の歴史が教えてくれている。

ぼく自身のことでいえば、
週に一回の、このダーリンコラムが、
2年間以上続いているのだから、もう百本以上、
毎日の「今日のダーリン」が、七百本以上。
手持ちの情報を出しているだけだったら、
もう無理というところに来ているだろう。
しかし、書くことは永遠にできるような気さえしている。
なぜなのだろう。
「生きることに飽きてないから」とも言えるし、
読み手といっしょにつくる何かが、
毎日のように生まれて成長しているから、とも言える。

ぼくは文鳥でないので、地理的にも時間的にも、
観念や空想のなかの世界にも・・・
さまざまな場所に旅をして、
見たり聞いたり困ったりよろこんだりという、
はじめての体験を新たに取り込み続けることができる。
それをさせてくれるのは、ぼく自身の好奇心だ。
この好奇心というやつに、
こわばりやこだわりがくっついて固定したら、
きっと、自分と自分の相手たちが、
いっしょに「飽きた」と言い出すのだろうな。

まだ、もう少し考え続けてみます。
もっとよくこの問題が見えてくるのは、いつの日か。

2000-07-10-MON

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