ITOI
ダーリンコラム

<見本をつくろう>


「どれだけ不細工なもんでもいいから、
 まずは見本をつくってみるこった」
長老は言った。

この村のいまいちばんの悩みは、
せっかくためておいた穀物や、
さていま食べるぞというアップルパイや、
テーブルの脚や、バスルームのせっけんが
ろくでもないネズミどもにかじられてしまうことだった。

こんなにたくさんのネズミが、なぜ増えたのか
理由は、まだ村人たちにはわかっていない。
多少なにかがかじられたところで、
ネズミと戦おうだとか、皆殺しにしてやれだとかいう
物騒なことを言いださないのが、ここの村の人々だった。

だが、所帯を持ってまだ1年とちょっとの
若夫婦の間にできたかわいい赤ん坊のほっぺたの近くで
ネズミが舌なめずりしていたという話を聞いたときには、
このおだやかな村の誰もが、
「ネズミを退治せにゃならん」とはっきり思った。

家ごと火をつけてしまえば、
ネズミも燃えて死んでしまうだろう。

村中から、みんなが引っ越しをしてしまえばいい。
そのときには、いっさいの食料も持って出るんだ。
そうしたら、ネズミは飢えて死ぬにちがいない。

たくさんの猫を飼って、
やつらにネズミを食わせてしまおう。
猫の嫌いな人は、虎を飼えばいい。

ネズミのことばを理解して、
なんとか話しあうというのはどうだろう。
おなじ生き物どうしだから、きっと心は通じると思う。

いろんな意見はでたけれど、
言った本人だけが賛成する程度の、
たいしたことのないものばかりだった。
考えているうちにも、ネズミは増えていくようだった。

「ネズミを獲る道具をつくるんだ。
 人間の手だけでは、やつらは捕まらねぇ」
「道具か、それはいい」

「道具をつくるには、ネズミの習性をもっと知る必要がある。
 ただやみくもに道具をつくってみても、無駄になるだけだ」
教師をしたこともある老人がしかつめらしい顔で言った。

ネズミの習性を知る。
道具に必要な「ぶつりのほうそく」を学ぶ。
「せっけいず」というものを描けるようにするために、
都会の学校に行く。
いや、学校に行くための「しけんべんきょう」をする。
そういうことが、どうやら必要らしかった。

「ネズミっちゅうもんは、何を目的にしているか」
「オスのネズミとメスのネズミは、どっちが強いか」
「何歳くらいのネズミがつかまえやすいか」
「ネズミは、1日にどのくらいのエサを食べるか」
「ネズミ算というのを知っているか」
さまざまな話しあいが、熱心に行われていた。
長老が口を開いたのは、このときだった。

「どれだけ不細工なもんでもいいから、
 まずは見本をつくってみるこった」
元教師の意見と対立するようだけれど、
長老は、とにかく道具をつくりはじめろという考えだった。
それを聞いてすぐに立ち上がったのは、
若い大工だった。

彼の考えた道具というのは、
あたらしくつくったものではなかった。
じぶんの道具箱から取りだしてきた金づちだった。
「ネズミの出入りする穴に前に、おらが待ちかまえているだ。
 でもって、やつらが出てきたところを、こいつで叩く」
そんなものでいいのか、という声もあるにはあったが、
若い大工は、そんな意見を聞いている間もなく、
ネズミの出入りする穴の前に張りつくことにした。

大工は、右手に金づちをかまえ、
寝ないでネズミの出てくるのを待っていた。
ひと晩たって、彼は一匹のネズミの死がいを持って
村人の前にあらわれた。
若い大工がしっぽを持ってぶらぶらさせたネズミの頭は、
気の毒なくらいにつぶれていてかたちになっていなかった。

「ほらみろ、一匹しかとれてない。
 ひと晩寝ないでがんばったのに、だ」
ネズミの研究をするべきだと言った元教師が、
若い大工をあわれむように言った。

「でも、一匹はとれたぞ」
ひとりの村人が遠慮がちだけれど、しっかりした声で言った。
「金づちだけじゃ、ダメなんだな。
 でかい木づちのほうが、叩きやすいぞ」

「木づちでもマカロニでもなんでもいいから、
 それも見本をつくってみるこった」
長老は、そう言った。

「夜通し起きてなくても、ネズミをぶっ叩けるような、
 なんかしかけはできねぇものだべか」

「それも見本をつくってみるこった」
長老は、そればかり言うことになった。

数日後、この村には、
何十種類というネズミとりの見本ができた。
やがてそれらは、あっちをこうして、こっちをそうして
という具合に改良されていくことになった。

村の人々は、ネズミの習性について研究もしなかったが、
だいたいのやつらの通り道は知っていたので、
そこに、改良されたネズミとりを置いていった。

その後、どうなったのか、詳しいことは聞いてない。

ネズミにかじられそうになったという赤ん坊は、
すっかり大きくなったという話だし、
この村で発明されたネズミとりは、
この地域の名物になったといううわさもある。


なんとなく、気まぐれで寓話風に書いてみたのだけれど、
「見本」というものが、とても大事なのだ。
どれだけ本質的で知的な話しあいがなされていても、
あらゆるものごとは、「見本」からしかはじまらない。

とにかく、つくってみるということから、
その改良がはじまるし、批評もできるようになる。
「ないもの」については、直しようがないのだ。
考えることも、追求することも、批評することも、
ぜんぶ大事なことなのだけれど、
どんなことでも、「不完全なたたき台」から始まる。
ネズミとりの例でいえば、
「金づちを手に持った人間」が、最初の「見本」だ。
ネズミとり装置としては、話にもならない
プリミティブなものだけど、
そこから、小さな修正をくりかえしていけば、
なんとかなるものだ。

スタートしてから、もう4年になるのだけれど、
「ほぼ日刊イトイ新聞」というやつも、
そんなふうにつくってきたという気がする。
「ビジネスモデルが見えない」という助言も
何度いただいたかことか。
設計図のない建築ではあったけれど、
人はそこで暮らせたし、ここまでつぶれないできた。
最初の「金づち」が見えれば、
ああだこうだと改良するためのいい意見ももらえるし、
これは無駄だったとか反省もできる。
「ほぼ日」を始める前に、さんざん書いた
自分が見るためだけの企画書も、
たしかに必要だったのはたしかだけれど、
なにより重要だったのは、
「スタートはとにかく6月6日だ」と決めて、
不完全なりにでも始めてみようとしたことだったと思う。

スタートした日の「ほぼ日刊イトイ新聞」は、
いまと基本的なデザインとかは同じだけれど、
ネズミをとるための「金づち」くらいの
情けないものだったような気もする。
でも、あの日の「金づち」からすべてがはじまった。

カメラマンになりたい人は、写真を撮ればいい。
漫画家になりたいなら、マンガを描けばいい。
小説を書きたいなら、最初のひと文字を書きだせばいい。
「文学とはなにか」を考えたり話しあったりするのは、
書きはじめてからでもできることだ。

「見本」をつくることからはじめよう。
それが、どんなに不細工で笑われちゃうようなものでも。

2002-06-10-MON

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