ITOI
ダーリンコラム

<甘い日本で、いいじゃない>


ワールドカップが終わって、6月が終わった。
なんだか、おもしろかったけれど妙な一カ月だったなぁ。
サッカーというものの文化が、
これだけ一挙に日本に押し寄せたということだけでも、
いまだかってない歴史的なひと月だった。

夢中になって応援したりしている人に遠慮して、
「ほぼ日」では、
「ほぼ日はワールドカップに興味があります!」という
へんなタイトルの連載を企画してみた。
最初の話しあいでは、
「ほぼ日もワールドカップを応援します」
みたいな感じになりかかっていたんだけれど、
ほんとにそうなのかなぁと疑問に感じて、
ただ単に正直にやってみようと、こういうことになった。

ぼく自身、どこを応援していたかといえば、
ごく単純に日本代表だった。
なぜ日本代表を応援していたのかについては、
よく理由はわからないままだ。
同じ国民だから、という以上に、
いちばんよく知っているから、親しみを感じる、
ということが理由なのではないかと思っている。
同じような文化風土に育っている人たちが選手だから、
どういう感性を持っているかとか、
わかったようなつもりになれるということもありそうだ。

だいたい、日本代表のことも含めて、
他のチームのことをよく知らないのだから、
どう好きになっていいのかも、よくわからない。

しかし、日本代表がどんどん勝てばいいなぁと思っていた。
予想というものが、あちこちに出ていたけれど、
「予想なんかが当たったってうれしくない。
 それよりは応援しているチームが勝ったほうが
 ずっとうれしいだろ」
という立場で、予選からたのしんでいた。
なかには、自分の予想がいかに当たるかということを
自慢したがる人間もいて、
そういうのって、おもしろくないだろ、と思っていた。
贔屓チームのある人は、基本的に優勝は
その贔屓チームだと思っていなきゃ、贔屓と言えないじゃん。

で、さて、実際にワールドカップがはじまってから、
もともとサッカー好きだった人たちが、
「サッカー応援の文化」について、
いままで以上に盛んに発言しはじめた。

いろんな言い方があったけれど、
日本の代表チームも、応援する日本の観客も、
「ほんとうに勝つという気持ち」が足りない、
というような論調が多かった。
そう言いたくなる気持ちも、わからないではないけれど、
理解して、みんながその通りになったら、
いやな環境になりそうだなぁと、ほんとうは思っていた。

「外国の敵チームの選手に、拍手なんか送ってる甘さ」とか、
「一丸となって、勝とうという意識が足りない」とか、
だんだんと、「勝つためのまとまり」が強調されてくると、
そのほうがおもしろい、というたのしみの範囲をこえて、
気持ちよくない思いが沸きおこってくる。

勝つために闘うことが、ゲームスポーツのルールブックの
見えない第一条に大書されていると、ぼくも思う。
しかし、勝つことだけが大事なことではない。
勝つことだけがほんとうに大事なのだったら、
「敗けて国に帰ったら、殺されるかもしれない」
などというような国のことを、認めなくてはならなくなる。
「がんばれ!」という応援の叫びよりも、
「殺せ!」という叫びのほうが、
より大きな価値をもつことになってしまう。
そういうのは、イヤなのだ。

高校に入学したばかりのころに、
新入生を集めて「応援の練習」という時間があった。
応援団の人たちが、「声がちいさーい!」とか言いつつ、
強制的に「指導」してくださるものだった。
それが、ほんとにイヤだった。
幸い、ぼくのいたその学校は、
本気で「応援」を暴力的に強制しようというような
「応援団」ではなかったのだが、イヤなものはイヤだった。
あのイヤな感じを、ぼくはやっぱり認めたくない。

外国のチームに拍手を送るのも、
他の国の選手のファンになるのも、
「どっちもがんばれ〜」とマヌケな声援を送るのも、
いいことじゃないか、とぼくは思う。
日本のサポーターや、日本人が
いま現在の「サッカー文化」的には遅れているように
思われるかもしれないけれど、大いにけっこうだ。
他の国のほうが、日本のマネをするようになったらいい。
選手たちが真剣に闘うこと、
向上しようと必死で修練を積むことと、
「どっちもがんばれ〜〜」という声援は、
全然矛盾なんかしやしない。

だいたい、選手たちが、教えてくれているではないか。
試合終了後の、ユニホームの交換にしても、
取材のときのセリフで、相手チームの選手に敬意をはらった
言い方をすることにしても、
根本的には、戦士のほうがよっぽど
「どっちもがんばれ〜〜〜」なのだと思うのだ。

サッカーの話題のときに、野球の話をまぜると
ヒステリックに怒る人もいるのだけれど、
あえて言わせてもらう。
ぼくは、いろんな球場で、熱狂的な
「ぼくにとっての敵チーム」の応援する人に出会っている。
試合中は、殴りかからんばかりの勢いで、
からんできた人もいたけれど、
何かをきっかけに、たいていは打ち解けたものだ。
にこにこ笑いながら、
「また、来んしゃい。
 めためたに打ちのめしてやるけ」みたいな
うれしくない別れの挨拶をされて帰ってきたりもしている。
また、ぼくが巨人ファンであることを知っている
よそのチームの選手たちとも、何度も出会っているが、
とても気持ちのいい対応をしてくれる。
このくらいの感じが、いいんじゃないの?
サッカーにしても、そういうふうになっていくんじゃない?

偶然、どこかの国の人として生まれて、
そのことがすべての根拠になって、
敵をつぶせ、と必死になる応援ってのが、
もし「サッカー文化」なんだとしたら、
それって、いずれは、変わってくると思うんだけどね。
「サッカーの国際的文化」と日本の感受性が違っていたって、
ぜんぜんかまうこたない。
自国の勝利のみを願うなんてできやしないもん、ぼくらには。

クール過ぎると言われがちな中田選手も、
決勝に残れただけで満足していると批判される選手たちも、
ぜんぜん、それでオッケーじゃん。
どう強くなるか、どんなふうに向上していくかは、
彼らは、きっともう考えていると思うよ。

「興味があります」程度のぼくが考えたことだから、
熱狂的な人からまた叱られるかもしれないけれど、
こんなふうに考えてましたということです。

2002-07-01-MON

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