ダーリンコラム |
<若いってすばらしい?> 若いということは、すばらしいことだ。 若いときに、そう言われたことのない人はいないだろう。 ぼくも、そんなふうに言われたこともあるし、 そういう歌もたくさん聴いたおぼえもあるし、 そういうことを書いた本も読んだ。 実は、「若いということはすばらしい」と言われていたとき、 ぼくは、それを信じられなかった。 可能性があるから、すばらしいとか、 エネルギーがあるからすばらしいとか、 いろんな言い方があったとは思うのだけれど、 どうも腑に落ちない思いがあった。 可能性がある、と言われても、 「くじ引きのチャンスがたくさんあるだけ?」 というような冷めた気持ちがあった。 外れくじのほうが圧倒的に多いくじを、 百万回引いても、当たらないままということもある。 自分に当たると信じられないのだ。 それが、若さというものの半面だと思う。 自信がないのだ。 そりゃそうだ、うまくいった経験もないのだから 自信なんか持てる理由もない。 ときどきは、難しい学校に入ったとか、 なんかのスポーツでいい成績だったとかを 自信にしていた若い人もいたんだろうけれど、 ぼくにはなにもなかった。 あんまりいいめにあってこなかったので、 横目でエサをながめている野良犬みたいなものだ。 いや、ちょっと誇張して言い過ぎてるかもしれない。 すねて生きていたとか強調するほどのことはなかった。 あんがい、素直なところもあったとも思う。 「オレは根っこのところが暗いから」とヨメに言ったら、 ぼくのことをかなり詳しく知っているはずの彼女が、 「ちがう。あんたは明るい!」と言いきったことがあった。 どうも、自分のことを ブンガクテキに言いすぎる傾向があるのかもしれない。 ま、それはそれとして。 若いときには、若いことのすばらしさが見えにくい、 ということは確かだと思う。 しかし、いまは若いってすばらしい、と言う。 若さを失ったために、懐かしんでいるから言うのではない。 もっと小さめに見積もっているのだ。 若いこと自体は、たいしたものじゃない。 だから、若いことを自分で誇っている若い人のことは、 バッカじゃないかと思う。 若いことのすばらしさというのは、 「若いときにしかできないことをやれる」ことなのだ。 つまり、おなじように、年をとることもすばらしい。 そこでも、年寄りであることを自慢にしている人には、 やっぱりバッカじゃないんすか、と思っている。 それでも、年寄りには 「年をとってからじゃないとできないことをやれる」 というすばらしさがあるのだ。 笑っちゃいけないけれど、 そう、つまり、どの年齢もすばらしいということだ。 これ、冗談でも気休めでもないんだよなぁ。 こんななんでもなさそうなことを、 なんで書きはじめたのかというと、 このごろ、農業のことを考え出したのをきっかけに、 植物とか樹木とかに興味がでてきたせいなのだ。 ま、仮に、ぼくの年齢を、 すっかりできあがって老いていく樹木としよう。 花を咲かせたり実をつけたりの他に、 下草も養うことも、木陰をつくることも、 その木の役割になる。 その木からの視線で見たら、 芽吹いたばかりの苗は、かわいらしい。 周囲に負けないようにつっぱっている若木には、 がんばれよ、いいね、がんがん行けや、と思う。 根っこ伸ばして、葉もせいいっぱい茂らせて 高く高く伸びようとしている若木を、 すばらしいと言わずしてなんと言う。 先々たくさんの可能性があるからなんていう そんなことじゃない。 いまのいま、現在の「ありよう」がすばらしいのだ。 そして、おなじように、 朽ちつつある老木も、すばらしい。 自分以外のものに、あれやこれや、なにやらかにやらを 譲り渡しながら消えようとしている姿は、 これまた、他の時期にはできないことをしているわけで、 可能性だのエネルギーだのということとは なんの関係もないような美しさだけれど、かっこいい。 で、この老木も、 タネや芽や若木の時代を過ごしてきたのだ。 「ほぼ日」を読んでいるのは、若い人からご老人まで、 ほんとにさまざまな年齢の人たちだけれど、 どの年齢がいちばんすばらしいなんて言えるはずもなく、 実にみんなすばらしい。 ぜんぶの年代が入りまじっていることが、 それぞれにとっての別の感じ方を知ることにもなって、 輪をかけておもしろいことになってくるのだと思う。 こういう「場」にいさせてもらって、 ほんとに感謝してます。 くたびれることも多いけれど、やっぱり感謝だよなぁ。 今回は、おもに、自信のない若い人に向けて 書きだしたつもりだったのですが、 そういうテーマじゃなくなったかもしれない。 ま、いいや。 |
2002-08-05-MON
戻る |