ダーリンコラム |
<一枚目としての矢沢永吉> 矢沢永吉に、「ほぼ日」の女子部がまるごとさらわれた。 矢沢のステージを、いままで観ていなかった人ばかりだ。 オソロシイなぁと、つくづく思ったね。 エーちゃんは、「ほぼ日」のコンテンツでもおなじみだが、 53歳になる男だ。 そのエーちゃんに「かっこいいいいいいっ」と 目を輝かせている人たちは、 その娘みたいな年齢だったりもする。 「好きとか嫌いとかじゃなく、いいんです、とにかく!」 というセリフが代表的なのだけれど、 観客ぜんぶを、一気にさらっちゃうのが矢沢のすごさだ。 ふだん、コンサートに行きたがらないうちの奥さんなども、 「エーちゃんのステージは観たい」と言っている。 「とにかく、あんなにいっしょうけんめいな人はいない」 というようなことも言っていたっけ。 知りあいの新宿二丁目関係の友人は、こんなことを言う。 「ぼく、ああいうタイプの人って、 ぼくらをいじめてたような気がして、イヤなんです。 だけど、義理でともだちに連れられて行ったら、 病みつきになっちゃって、 好きじゃないって言いながら、 必死でチケットとってるんですよ」。 こういう言い方をされる人って、 他に誰がいるんだろうなぁ。 好き嫌いの外側に、魅力ってものがあるのか。 だいたい、「ほぼ日」の女子部のみなさまは、 どちらかといえば、文科系とか芸術系というような、 ソフト路線の音楽が好みだったりするし、 ふだん出かけているコンサートなども、 そういうタイプのものばかりだったはずだ。 男のファンが声を枯らして「エーちゃーん!」と 叫ぶのはすっかりなじんだ景色だったのだけれど、 こんなに、一発で女性の熱狂をかき立てるとは知らなかった。 こりゃ、男女問わず、じゃないか! 国民のヒーローかい。 他の誰かにたとえるとしたら、誰なんだと考えはじめたよ。 なかなか思い当たらない。 人気が沸騰していたときの小泉純一郎とか、どうだろう? ちがうよなぁ、20代の女性にため息つかせないもんな。 芸能の世界で、いろいろ考えてもみた。 魅力のある人たちはいくらでもいるし、 大物と言われる人たちもたくさん思いつくけれど、 どうも、「一気にかっさらう」パワーはない。 そして、ふと思いついたのだ。 まったく知らない人だし、ずっと昔の人だけれど。 「市川団十郎」という名前を思いついたのだ。 この名は、初代からずっと襲名されているけれど、 江戸の歌舞伎のなかで、老いも若きも男も女も、 すべての人の注目を集めた役者だったらしい。 きっと歌舞伎に詳しい人なら、何代目がすごかったとか、 もっと細かく説明できるのだろうが、 ぼくは浮世絵に興味を持っていたときに、 ちょっと聞きかじった程度なので、もうしわけない。 なんで市川団十郎なんて名前を出したかというと、 まず、「一枚目」という言葉がひらめいたのだった。 歌舞伎の世界に「一枚目」なんて言い方はない。 二枚目というのは、ある。 「あいつは、二枚目だね」なんて使われるけれど、 もともとこの言葉は、芝居小屋にかかる 役者の名札の位置からきているものだ。 二枚目に掲げられるのは、美男の役者。 同様に、三枚目はひょうきんな役者の位置だ。 で、一枚目はその芝居の主役の名前がくるに決まってるから わざわざ何枚目などという必要もないというわけだ。 圧倒的な実力と人気を持つ筆頭の役者が、 主役を張っているということになる。 二枚目の美男というか色男は、主役ということではない。 「色男、金と力はなかりけり」と言われるように、 美男だけれど、なにか欠けるものがあるのが 二枚目というものなのだろう。 三枚目のほうも、同じように、主役ではない。 どんなに舞台を活気づけても、主役の格ではないのだろう。 いまの時代、ほんとうは二枚目や三枚目に 看板をかけられる美男や道化が、臨時で 主役を兼ねているのではないだろうか。 それはそれで、現代のリアリティなのかもしれないけれど、 ほんとうはやっぱり「主役」というのは、 二枚目や三枚目ではない、もっとでかいものなのだ。 おそらく、市川団十郎を張ってきた人々は、 二や三の上を行く何かを背負っていたのだと思う。 「女をめろめろにします」という二枚目や、 「おおぜいを笑わせてみせます」という三枚目には まかせきれないリーダーシップのようなものが、 主役には必要とされているのだ。 (市川団十郎についてよく知りもしないくせに、 説明のためだけに登場させてもうしわけなかったですが) だいぶん、回りくどい言い方になってしまったけれど、 矢沢永吉という人は、どうやら、 二枚目でも三枚目でもない、一枚目の主役になっているのだ。 たぶん、生来のエーちゃんの性格というのは、 ものすごく「三」なもので、ふつうに暮らしていたら 「矢沢くんって、おもしろいねぇ」と言われるような ひょうきんな人になっていたのだろうけれど、 運命の線路が、彼を「二」の方向に連れていき、 やがて、「三」も「二」も統合して超えるような 「一」に至ってしまったのだと思う。 おそらく、生まれつきの二枚目はいても、 ほっといても「一枚目」になる人間なんてものはいない。 ほんとうの主役を張るための生き方を、 彼はしてきたのだと言えるし、 その生きてきた道筋そのものに、 男も女も、敬意をはらい、しかも熱狂するのだろう。 「三」にしてはハンパで、 「二」はあきらめるしかないふつうの男でも、 「一」を理想に持つような人間になりたいものだ。 そういえば、古代ローマ研究の青柳正規先生が、 「ジュリアス・シーザーというのは、 男のぼくでも、熱狂したくなるような 強烈な魅力を持った人物だったと思いますねぇ」 と、まじめな顔で言っていたことを思いだした。 そう語る青柳先生も、とてもカッコよく見えたものだった。 |
2002-08-19-MON
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