ダーリンコラム |
<いま現在の日本語のことなど> 理解できてることを書くわけじゃないのですが、 なんか、漠然と思っている大事そうなことを、 とにかく記録としてでも言ってみたくなったので。 焚き火のまわりに集まって、 秋の夜長に雑談するような感じで、 ま、聞いてくれや。 じゃ、ぼちぼちと・・・・。 「すいちゅうさんぽ」と、ひらがなの並んだ文字を見たら、 あなたはなにを想像するだろうか。 耳からのことばとして「すいちゅうさんぽ」と聞いたら、 もしかして、あなたは聞き返すだろうか。 漢字で書くと「水中散歩」のつもりだったけれど、 これなら、たぶんまちがいなく意味がわかったろうと思う。 水の中を散歩すること、だ。 辞書をいちいち調べなくても、その程度のことはわかる。 「水中散歩」なんてことばは、一般的には使われていない。 スキューバダイビングをしている人とか、 そういう人の話を聞いている側の合いの手として、 「水中散歩だね」なんて具合に使われるだけだろうと思う。 もともと「散歩」ということばは、 明治時代以後に、「散歩する」という概念が輸入されてから、 それに合う日本語として考えられた造語らしい。 また、「水」は、訓読みでは「みず」であって、 日常生活では「すいを飲みたい」などとは言わない。 音読みの「すい」は、いわば外国語としての読み方だ。 同じように「中」も、「なか」であって、 「カバンのちゅうにメガネがあるよ」なんて言わない。 ぼくも含めて、一般的な日本人は、 日本語と外国語(主に中国語の変形したもの)を、 まぜこぜに使って生きている。 さらに、中国以外からの外国語を「外来語」と呼んで たくさん使ってもいる。 よく、戦時下の野球の試合で 英語が「敵性語」ということになって使えないために、 いちいち日本語に言い替えたというが、 例えば、「ストレート」を「直球」と言い替えても、 それは「英語→中国語」に変換しただけだとも言えるだろう。 「直球」はもう十分に日本語なのだ、という考え方もあるし、 事実、大多数の人が日本語だと思っているのだから、 これはもう日本語と言っていいのだと思うけれど、 やっぱり、もともと中国からきた材料を 組立て直してできた日本語だ。 この、外国語を混ぜながら自国語をつくってきた 日本語というものの「いい加減さ」は、 なんだかおもしろいなぁと思う。 いま、ぼくは日本語だけが「いい加減」であるかのように 書いているけれど、おそらく、 他の国のことばも似たようなものなんだろうとも思う。 しかし、「音読み」としての中国語と、 「訓読み」での日本語と、 両方を混ぜて使い分けているというのは、 相当に特殊なんじゃないだろうか。 さらにさらに、 漢字というのも中国から借りてきたもので、 ひらがなも、カタカナも、それを変形させたものだ。 「い」の字は「以」だし、「ふ」の字は「不」だとか、 面影があるからわかるものもいくつかある。 もともと日本に住んでいた人たちのしゃべったことばを、 文字として記録するときに、 中国の道具である「漢字」を使ったわけだ。 ひらがなとカタカナは「表音文字」として、 つまりひとつの音を表す文字として使われている。 こういう、とにかくごちゃごちゃな道具を、 ぼくら日本語使いの人たちは、なんとか使っている。 たいしたもんだと思う。 いまから習えって言われたら、やだね。 複雑すぎるもん。 よく、外国から来た人で、 「しゃべれるけれど、読めませーん」という人がいるけど、 その人たちは、実はけっこう大変だと思う。 「海中散歩」ということばを耳にしたときに、 「かいちゅうさんぽ」と聞こえてしまうわけだから、 自分がたまたま耳にしたことのある「かいちゅう」を ひっぱりだして意味を想像しなくてはいけない。 「回虫」やら「懐中」やらが頭のなかで検索されたら、 「回虫さんぽ」とか「懐中三歩」とか、 わけのわからない意味を思い浮かべてしまうかもしれない。 ディズニーランドの「らいえんしゃ」と聞いても、 「らいえんしゃ」という 音だけを頼りに想像することになるわけだから、 「ライオンの言いまつがいかなぁ。 でも、ライオン舎なんてあそこにはないしなぁ」 なんて思うかもしれない。 ぼくら日本に生活して、日本語に囲まれて育っている人は、 なんとなくでも「目で見た文字」を知っていることで、 会話のなかでも「漠然とした意味」を 理解するということができているわけだ。 「来園者」でいえば、「来る」「園」「もの」という 表意文字としての漢字それぞれが持っている意味を、 あらかじめ知っていることで、 しゃべりことばのなかに、漢字のことばを 平気で混ぜこむことができるわけだ。 おかげで、「へーい、めーん」みたいな感じで、 すっかり自分のことをニューヨークの黒人みたいに 思っている若い人でも、 「各自、課題として」だとか「通常運転」だとかいう 漢字まじりのしゃべりことばを、 けっこう理解することができている。 だから、たぶん、お役所ことばがずらずら並んでいるような (ふだん耳にしにくいことばがたっぷりの) 運転免許の筆記試験にも合格して 改造車なんかもブンブン乗り回せるってわけだ。 日本にいて、日本語をしゃべったり聞いたり、 読んだり書いたりしているぼくらは、 なんだか、とても複雑な道具を使っているし、 同時に、その複雑な道具を使っているおかげで 複雑に脳を動かしているんじゃないかねぇ、と、 思ったわけだ。 たぶん、なんだけれど、 これから先、長い時間が過ぎていくにしたがって、 表意文字を使う分量はどんどん減っていって、 日本語の表音文字化が進んでいくのではないかと ぼくは予想している。 まずは、書き言葉そのものが、 どんどん「口語体」に近づいていく。 共通の「漢字的な教養」がないと伝わらないという問題を、 もっとおおぜいに伝わるように言うためには、 「表音文字」的な日本語のほうが使い勝手がいいはずだ。 そして、インターネットやメールのおかげで、 声でコミュニケーションしていたメッセージを、 いちおう文字に換えることを、 「いままで書かなかったタイプ」の人たちがすることが 多くなると、ますます「口語文化」の勢力が増していく。 たぶん、いま現在の人たちが、古文を 「研究」や「趣味」の対象としているように、 いままで「ふつう」とされてきた文学なども、 一部の「知識人」の特別なものになるのではないだろうか。 実際、いままででも、歌謡曲の歌詞のなかに混じっていた 文語的な表現が、年々、減ってきている。 いま流行している歌は、演歌も含めて、 当然のように「しゃべりことば」の詩でできている。 自分自身が、「自分ならでは文体」よりも、 自分ならではの「話体」をつくるように 組立て直しているのは、 インターネットを知って、タイピングを憶えて、 「ほぼ日」という場を持ったせいだった。 たぶん、いま現在の日本で、 いちばん伝わりやすい文体をつくろうとするのなら、 日本の「共通理解」の水準がどれくらいのところにあるのか、 肌で感じるような「感受性」が 最も大事になっているのだと、ぼくは思う。 (それが、ぼく自身によくできているかどうかは別として) 「このことばは、どれくらいの範囲の人に届くか」 単語はもちろん、言い回しや、比喩なども含めて、 たえず吟味していくような「サービス(親切)」が、 いまの時代のテキスト表現にとって 最も必要なことだと思っている。 なんか、おしまいのほう、難しそうな言い方になっちまった。 つまり、あたしの腕が足りないということです。 バラバラなメモのようなものでしたが、 部分部分について、感想などあったら、ください。 |
2002-09-09-MON
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