ダーリンコラム |
<北の国から、から。> よく、ぼくはこういうたとえ話をして、 たまにはちょっとひんしゅくを買ったりしている。 「素晴らしい結婚式に招かれたとしてさ、 食事はおいしいし、花嫁も花婿もほんとにいいやつで、 その場にいた人たちが、こころから祝福してて、 こんな時間をすごせてよかったなぁ、と思っててもさ。 ろくでもないやつがひとりだけ登場して、 テーブルの上にしゃがみこんでクソしたとしたらね、 その結婚式は、『あの、クソされた結婚式』というふうに 思い出にされちゃうんだよ」 これは、たとえ方は悪いかもしれないけれど、 ほんとにそういうものなんだと思う。 無許可の残留農薬にしたって、 農家の人たちが一所懸命につくって、 日を浴びて、養分吸い込んで、時間をかけて育った 野菜に、ほんのちょっぴりの「毒」があったということで。 ちょっぴりにせよ、その「毒」のせいで、 いいところはなんにも見えなくされちゃって、 「毒」だけが表現されてしまうというわけだ。 いくらその毒さえなければおいしいリンゴ、 だったとしても。 建設は地道で困難だけれど、破壊は一瞬にしてできる。 悪いことのほうが、印象が強烈なのだ。 世の中が、どんどん悪くなっているという意見も、 そういうふうに言われると、そんな気もしてくるものだが、 実際のところは、どうなんだろうと疑わしいのだ。 日本人はダメになっただの、悪くなっただの、 そういう例を探せば、いくらでも出てくる。 30分ほど街を歩いたら、いかにも悪いやつや、 いままさに悪いことをしている状況を、 いくつかさっそく見つけられるかもしれない。 金髪に染めている若者や、道端にしゃがみこんでいるやつを 「悪いやつ」として勘定したら、 そりゃぁもう、けっこうな数になると思う。 ただ、ぼくは「そう思いたいから」というだけでなく、 いま現在生きている日本の人たちは、 そんなに悪いもんじゃないと考えている。 いままで歴史のなかで、いろんな人たちが海外から来て、 「日本の人たちは親切で礼儀正しくて知的である」 というようなことを語っている。 たしか、アインシュタインも言っていたし、 最近ではワールドカップで来日した イタリアのジャーナリスト・フランコさんも たぶん本気で言ってくれていると思う。 これは、社交辞令とばかりは言えないだろう。 「何が正しくて、何が悪いのか」ということが、 一般に「倫理」と呼ばれているものだ。 法律に記されている「正しい・正しくない」の他に、 それはあるはずで、 どんなに法律では認められていたとしても、 人々が「悪い」と思ったものは、その社会に認められない。 キリスト教圏の人たちの「倫理」は、聖書に書いてある。 裁判のときに、聖書に手をのせて宣誓するのは、 「法を守るための基本的な合意の確認」だ。 でも、日本人は聖書をもとにして 正しい正しくないを決めているわけではない。 宗教がないとも言われる日本人が、持っている倫理観 というのは、どこにその源があるのか、 ぼくは研究したこともないし、知ってはいない。 だけれど、実際にぼくらは誰でも、 「いいこととわるいこと」を自分なりに決めて、 自分なりにそれを守ろうとして生きている。 『北の国から』というテレビ番組を知ったのは、 なんとこれが21年間も続いてきて、 今回で終わろうとしている今年のことだった。 つけっぱなしにしているテレビが、総集編を流していた。 「オレ、これ、好きかもしれない」と、 ちょっとだけ観て、ぼくはチャンネルをかえた。 観るなら、しっかりぜんぶ観てみたいと思ったからだった。 そして、観る気になってこころの準備をして、 最終話の『遺言』を観たのだった。 おもしろかった。 つくっている人たちの真剣さが伝わってくる。 アンダーグラウンドの勇士だった唐十郎さんや、 アイドルとして出発したはずの内田有紀さんをはじめとして、 キャスト、スタッフ、関係者すべての力が、 ひとつにまとまって 画面からどうどうと 滝のように流れ出てくるのに、圧倒された。 しかし、作品論を、いま語るつもりはない。 ぼくがつくづく感じいったのは、この番組を 「観ることで支えている」人々の「気持」のほうだったのだ。 番組の最終話の視聴率は40%近かったという。 ぼくや、ぼくの周囲の忙しい人たちのように、 観ていなかったけれど、観たらひきこまれるであろう人を、 しっかりカウントしたとしたら、 おそらく、この倍に近いくらいの人たちが、 『北の国から』の世界に共感していたのではないだろうか。 この物語に登場する人たちは、 みんな不完全で、失敗も多く、 思うように生きられなくて、情けない。 しかし、この人たちをまとめて肯定するような 「いいわるい」の判断を、視聴者はしていた。 ろくでもないけれど愛すべき人、 ぐずぐずしているけれど憎めない人、 取り柄がないかもしれないけれど気立てのいい人、 失敗したり悪いことをしたけれど立ち直ろうとする人、 迷惑だけれど人の好い人・・・・。 ただ立派な人なんかひとりもいないし、 誰がいちばん「正しい」のかを競わせたとしても、 どの人も1番に選べないと思う。 しかし、この『北の国から』の登場人物たちは、 それぞれに、多少は嫌われたりしつつも、 40%をはるかに超える日本の人たちから、 許され、愛されているのだ。 登場人物たちの、視聴者からの「許され方」は、 日本の「倫理」の基準点を示しているように思う。 ワイドショーなんかでは、過剰に興奮した演技で、 「これが許せないあれが許せない」と 「お茶の間の倫理」の代弁をしているつもりかもしれないが、 『北の国から』の視聴者は、おそらく、 もっと「許している」のである。 「ただしいただしくない」の軸は、 『北の国から』の、しょうもない登場人物たちが ときどき遠慮がちにつぶやく、 「こういうことはしちゃいけねぇと思うんだよ」とか 「こういうものは大事なことだ」 というような、ごく少ない決まりごとのなかにある。 このドラマの倫理の源泉は、 ひょっとしたら「連続ドラマ」の初期に、 クマさんという人が時々つぶやいていた 「宮沢賢治」のなかにあるのかもしれないが、 進行するにしたがって、 その場面も忘れられていったから、 それをコンセプトにしてはじまって、 だんだんそうでないものに変わっていったのだろう。 まだ『北の国から』を全部観ていない 新参者のぼくなのだけれど、 ここで描かれている世界に共感したり共振したり している人が、おそらく半分を超えている いまの日本という社会を、なんか誇らしく思う。 『北の国から』を制作してきた人が、 日本の倫理の教科書をつくろうとしていたとは 思わないのだけれど、 こういう考えや、こういう人々の世界を、 「わたしたちは、いいと思う」という提案は、 毎回、していたのだと思う。 「ほんとに、人間生きていくのは いろいろあるもんだよ」というような 受け取り方によっては、 主体性のない諦観とも、 無責任な日和見主義ともとられそうな「思想」が、 このドラマにはいつもベース音で聞こえていて、 ぼくは、それが多くの日本の人たちに 受け入れられてきたのではないかと思っている。 「こうあるべき」という理想像から 逆算していまの自分を考えるのではなく、 「どうなるかわかりゃしない」 だけど「これだけはやっちゃいけねぇ」という 最低限の倫理だけで旅をしている登場人物たちは、 たぶん、いちばん多い日本人のパターン なのではないだろうか。 だいたい、テーマソングに「歌詞」ないもんね。 あ〜〜あ〜〜あああああ〜〜〜あ〜〜だもの。 どんな色にでも塗りなさいっていう塗り絵だもの、 あのテーマソング。 「こうあるべき」だの「こうありたい」だの、 何も語ってないテーマソングも珍しいだろう。 そうして「生きること」という旅をしている 登場人物たちの運命のハンドルを、 右や左にカーブ切らせるのは、 このドラマのなかでは、たいていは 「暴力」というものだ。 その最大の暴力は、何よりも「大自然」であり、 人間のなかにふだんは気づかれずに眠っている 「自然=けもの性」というやつだ。 自分でもどうにもコントロールしがたい 「自然」の暴力性によって、彼らの運命は ころころ変わってしまう。 観ようによっては、『北の国から』は、 なかなか、ヤクザ映画以上に暴力的な、 おそろしいドラマなわけで。 そこまで含めたこの世界が、 こんなにおおぜいの人々に支持されているということで、 日本人の成熟度というのも、すごいものだなぁと また感心したりもするわけだ。 ずいぶん、ふらふらと寄り道しているけれど、 最初に戻る。 日本人は悪くなったとか、 未来はどうしょうもないとか、 言われている国の40%の人々が、 テレビの前で、この『北の国から』を 受け入れているのだと思えば、 やっぱり、そっちを中心にして、 この国とか、この国に暮らす人たちのことを 考えなくちゃいけないんでないの?と、 ぼくは思っている。 ときどき、日本の教育に「道徳」や「倫理」を もっと取り入れようという動きがあるけれど、 そんなものを教科書で学ぶよりも、 毎週、このドラマを見せて、 みんなで感想を語り合うだけで、 けっこうナイスな教育ができると思うよ。 すっかり長くなりましたが、このへんでやめて、 『北の国から』の第22話から24話を 一気に観ようと思います。 それから旅支度して、ロスに出発します。 んじゃねー。 |
2002-09-23-MON
戻る |