ITOI
ダーリンコラム

<見えることと見えないこと>


そんなに哲学的なことを言いだすつもりはないのだけれど、
「見えること」と「見えないこと」については、
いつも、ずっと気になっている。

人間は進歩してきたということだけれど、
この進歩というやつの歴史は、
「見えない」を「見える」にしてきた歴史のような気がする。
いちいち例を持ちだすまでもないだろうけれど、
バイキンを見たり、空の星の表面を見たり、
人の身体のなかを見たり、
住んでいるところからは見えないはずの遠くを見たり、
墓の奥を見たり、ウソの世界をつくっては見てたのしんだり、
なんでもかんでも見えるようにしてきた。

こういうことは、もう直るものでもない。
見えるものの世界がどんどん拡大していくときに、
どこかに見えないものが発見されたら、
そこにも光を当てたり、近づいてみたりして
見えるようにしたくなるのは、
人間という生き物の運命みたいなものなのだろう。

スカートがしょっちゅう風に吹かれてひるがえっていたら、
人はたぶんスカートをのぞくことなんかしなくなる。
誤解を招くとまためんどくさいのだけれど、
北朝鮮の関わる話に、人が過剰なまでに興味を持つのは、
あの国が「見えない」ということが
大きな要因になっているだろう。
西洋の人たちが、東洋を神秘化してきたのも、
「見えない」あるは、
長い時間「じっと見てきた」ものでない、からだろう。

深海に潜っている人は、真っ暗闇のなかで
周囲が見えない状況にあるときに、
いちばん恐怖を感じるのだという。
まわりが「見える」ことで、恐怖はだいぶん軽減される。

敵と味方に分れて戦うゲームでも、
相手がどういう存在で、どんな武器を
どんな戦力を持っているのかが「見えない」場合には、
そうとうに怖い戦いになる。
『幽霊の正体見たり枯れ尾花』というけれど、
見える前までは、枯れ尾花を怖れていたということだ。

しかし、ここまで何もかもが見えるようになってくると、
「見える」がゆえの恐怖さえも
生まれてきているのではないだろうか。
『幽霊の正体』ということばの逆で、
『知らぬが仏』というのもあるではないか。

天敵のいない環境に暮らしている南極のペンギンは、
人が近づいても平然としているという。
自分だけでは生きていけないに決まっている赤ん坊は、
何も知らないけれど、幸せそうに笑いこける。
大人のぼくらにしても、何も見ていないはずの
眠っているときが、いちばん安楽にしている時間ではないか。

何から何まで見たいと思うことも、人として自然であり、
逆に見えすぎると、
見えるものへの具体的な恐怖が生まれてくる。
例えば、インターネットの発達が、
「見える」ことを増やしてくれるのだけれど。
これは「見る」側を増やすと同時に、
「見られる側」を圧倒的に増やすということでもあるわけだ。
いままでひっそりと暮らしていた
正しくもないし悪くもないようなひとりの人間のことが、
「見える」ようになってしまったら、
あきらかにその人物の人生は大きく変わらざるを得ない。
さらに、その人間を「見る」だけだった無数の人々は、
自分もそういう「見られる」側に立つ可能性を考えて
防衛的にふるまわざるを得なくなってくる。
そう。怖いものが増えたのだ。
見えることが増えた分だけ、怖さも増えたというわけだ。

見る見る見る、もっとよく見る、というかたちの進歩が、
世界をなんでも見えるようにしてきたように思えるけれど、
ほんとは地図でいえば「見えない」大陸の面積のほうが
とんでもなく大きいのだと、ぼくは思うのです。
少し前に、「複雑系」という考え方が流行したとき、
こりゃあいいや、と、ぼくは思ったもんなぁ。
「ナニナニは複雑系だから」ということで、
「わからない」という結論を出すことが
反則じゃなくなったもんね、あれから。

見たいという気持を止めることはできないけれど、
「いくら見えたって、たかが知れてる」という
ある種の健康な諦観のようなものが、
いまの社会の「見る見る地獄」から身を守る方法だと
思うんです。

だって、全部を見ること、全部を知ることなんか
できっこないんだからさ。
いま、ちょうど話題だから例にあげるけれど、
今シーズンのプロ野球が開幕するまでは、
原辰徳監督は評価されてなかった。
それは、ぼく自身にしても申し訳ないけれど同じだった。
長嶋監督時代に、原さんは、
「コーチとして、選手と監督のよきパイプ役に」と
くりかえし言っていたけれど、
これって、まるでなんにも言ってないのと同じに聞こえた。
その原さんが、監督になってどうなるのか、
一般の野球ファンが判断する材料は、
スポーツ紙や、野球解説者の提供する情報しかない。
それらの情報を、パズルのように組み立てると、
自分なりの意見ができあがったように思えるもので。
「どうなんだろう。期待しすぎちゃいけないなぁ」
などという結論を、いかにも
「いろいろ見て知った結果」導き出したもののように
思いこんでしまうのだ。
限られた情報を元にして、勝手に決めつけた意見が、
いかにも「オレさまの正しい判断」に思えてしまう。
やがて、試合の展開を何度も見ていくうちに
修正はされていくんだけれどね。

なんでも見てる人なんかいないし、
なんでも知ってる人なんかもいないのに、
限られた情報を材料にして、
もっともらしい結論を導くのは、
それを商売にしている人だけで十分なのではないだろうか。
「わからない」という当然の答えが、
どうしてこんなに言いにくい社会になってしまっているのか。
「わからないですませる態度がいけないのよ」と
言われるかもしれないけれど、
そこで「わからない」を責めている人が、
たくさん材料を持っている人の
受け売りをしているだけかもしれない。

そんなに「見える」ことが必要なのか。
そんなに「見えない」ことはいけないことなのか。
生きていくのに必要なことが、
あんまりたくさんあるというのは、ヘンだと、ぼくは思う。

「見えない」世界の広さと、深さとを、
もっと畏れて、もっと大切にしてもいいのではないだろうか。

ま、その、
スカートはめくらないほうがたのしいんじゃないか、
ということも言えるんじゃないか、と。
まいど、どっちつかずの言い方でスマンが。

2002-10-21-MON

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