ITOI
ダーリンコラム

<買いものというおたのしみ>

先日「今日のダーリン」で、
人は「買い物」を好きだということについて、
ちょっと書いた。

モノを買う、ということは、
そのモノが必要だからとか、
そのモノをほしいからということ以上に、
「そのモノを買うことをしたい」からではないかと思う。

「モノそれ自体の価値」を手に入れるのが
一般的に買い物の楽しさだと思われている。
この場合の主人公は「モノ」だ。

しかし、「モノを買う」をしたいということになると、
「買う」という「コト」の意味が強くなる。
それは主人公かどうかはわからないけれど、
すばらしくいい演技をする脇役くらいの
大きな存在になっていることはまちがいない。

何を買うかわからないけれど「買い物」がしたい。
そういう気持ちでする買い物は、とても多いと思う。
いちばん露骨なのが、
空港などの免税店で品定めをしている人々だ。
もちろん目的のある買い物をしている人もいるけれど、
買い物をするという「コト」を先に決めていて、
その構文に、あとで目的語にあたる商品をあてはめる。
つまりは、「買うコト」ができれば、
目的であったはずの「買うモノ」がなくてもいい、
ということもあるということではないだろうか。

思えば、テーマパークに出かけていく人々は、
入場料金を払うという「買いもの」はするけれど、
モノを持ちかえることなく、帰ってくる。
これはこれで、常識的なこととされている。
レストランで、食器やインテリアにコストをかけた店は、
その「コト」も代金のなかに組み入れている。
それについては、やっぱり常識だということになっている。
ずっと昔の芝居やら、稽古事やら、売春だって、
客が「モノ」を受け取らない「買いもの」だというわけだ。
「コト」にお金を払うということは、
大昔から、当然のようにあった。

「買いもの」が、
モノという価値を手に入れるためのものだけはなく、
「コト」やら、「モノ」が取りまかれている「環境」やら
までも含めた、「おたのしみ」だということは、
もともと、客の側では、
ほんとはとっくにわかっていたことなのだと思う。

その、とっくにわかっていたはずのことを、
売る側も買う側も、忘れているケースが多いのではないか。
「買いもの」を、公式的に、
<モノの価値と金銭とを交換すること>
というふうにとらえていたら、
こぼれてしまうものがいっぱいになってしまう。
実は、この「こぼれてしまうもの」にこそ、
「買いもの」の「おたのしみ成分」が、
たっぷり含まれているのにねぇ。

「ほぼ日」でも、何かを売っている時期には、
乗組員一同も活気があるし、
全体のアクセス数もあがっているという現象がある。
モノを売っているから、という以上に、
おそらく「買いもの」に合わせた環境を、
売る側も買う側も伝えたり受け止めたりしているからだ。
もともと、ぼくは
「ほぼ日」でつくったり売ったりするものは、
ひとつずつ「コンテンツ」なのだとしつこく言っている。
モノと、それを売るための環境作りは、
最高の連載に勝るとも劣らぬ
「ほぼ日」のメッセージであり、
「ほぼ日」の提供できる「おたのしみ」なのだ。

さて、ここで終わろうとしたけれど、
ちょっと補足的に書きたいことが残ってしまった。
それは、「採集」したり「捕獲」したりという
「買いもの」でなく手に入れる「おたのしみ」のことだ。
栗ひろいも、魚釣りも、キノコ狩も、イノシシ猟も、
最高におもしろい「おたのしみ」だ。
ほんとうは、こっちのほうが先だったのだと思う。
たぶん、「買いもの」というのは、
お金という鉄砲を使って、採集や狩猟をするという
「おたのしみ」なんだろうなぁと、思う。

ああ、朝からの出張の準備をしなきゃ・・・。

2003-03-17-MON

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