ITOI
ダーリンコラム

<やっぱりほぼが好き>

のんびりしたことを、考えていた。

ほぼ日刊イトイ新聞の「ほぼ」という二文字を、
ぼくはけっこう長いこと考えた末につけたものだった。
なぜ、この「ほぼ」にしたのか、
実はよくわかっていなかった。
「ほぼ」という言葉の響きがよかったというのが、
いちばん大きな理由だったかもしれない。

「日刊イトイ新聞」では、つらいなぁという感覚もあった。
ほんとうに「日刊」でやるなんて、
できない可能性があると思っていたのだ。
だから、「ほぼ」をつけた。

しかし、いままで、頭についた「ほぼ」を理由にして
休んだことは一度もなかった。
休みのようなかたちをとったけれど、休んではいない。
今年も6月6日がきたら、
5年間、一日も更新されない日はないということになる。
せっかく「ほぼ」がついてるのだから、
その権利を使わない手はない、と言われたりするのだが、
権利の行使ってのも、なんかイジマシイ考えだと思って。

いままで、そうやってずっと
「ほぼ」という帽子をかぶってやってきたら、
この「ほぼ」という二文字に、
ほぼ日刊イトイ新聞のアイデンティティが
転写されてしまったような気がする。

「日刊」でも「イトイ」でも「新聞」でもなく、
「ほぼ」に、
最も「ほぼ日」らしさが蓄積しているような、
そんなことを、ぼくは感じているのだ。

「ほぼ」を英語にしようとすると、
・almost ・nearly ・about ・something like
というようなことになるらしい。
(これは「goo」の英和辞典で調べた。感謝)
「ま、アバウトな意見ですけどね」なんて言い方があるが、
だいたい、そういう感じだ。
あらためて「なんと自分らしい!」と、ぼくは思う。

もともと、ぼくは大の「アバウト好き」で、
「だいたいどういうことなんだ?」というのが、
もう、人生観、世界観の中心コンセプトだと思っている。
だから、叱られることもあるし、
だからわかることもある。
「アバウト」でわからないものは、
正確にもわからないし、その後の広がりも見えない。
「大づかみ」に、まずわかりたいと思う。
こういう人間が、「ほぼ」を選んだというわけか。
いいぞ、と思った。

「ほぼ」を漢字で表した単語もある。
「保母」だ。
・a nurse ・a kindergarten teacher(幼稚園の先生) 
これはこれで、ホスピタリティを感じさせていいねぇ。

じゃ、「ほぼ」をローマ字で表記したら、どうだ?
「HOBO」だ。
見た目はいいなぁと思う。
しかし、このローマ字の「HOBO」が英語になると、
「浮浪者」という意味になるらしい。
そういえば、「ホーボーソング」とか、
耳にしたことがある。
「浮浪者」というよりは、もっと「さすらい人」というか、
「放浪人」というようなイメージで、
ぼくはとらえていたような気がする。
和英辞書で「浮浪」を引いてみると、
「wandering」というらしい。
同じく「浮浪者」は、
「a tramp」「a wanderer」だって。
『悲しき街角』という邦題の歌は、
『I'm wandering 』だったんじゃないかなぁ、たしか。
恋に破れて、ぼくは彷徨うというような歌だった。

ま、いいか。
英語の「HOBO」に悪いイメージがあっても、
考えようによっては、それでもいいか、と思った。
高田賢三が、パリの自分のブティックを、
あえて『JAP』と名付けたような例もあるしなぁ。

というようなことを考えて、
しばらく、もっと「ほぼ」をかわいがってやることを、
決めたしだいであります。

2003-03-31-MON

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