ITOI
ダーリンコラム

<クルマの車輪が木製だったら>

歴史的な発明というのは、
当然のことながら、「心臓部」に関わることが記録される。
自動車の発明といえば、
蒸気を動力にするものと、
ガソリンを動力源にするものとがあるけれど、
どちらにしても、エンジンというものを中心に考えられる。

人が乗れる車付きの板なり箱なりがあって、
動力を生みだすエンジンがあれば、
それはたしかに自動車の原型だろう。

しかし、生みだした動力を、
車輪の軸に伝える仕組みがなければ、
自動車は、動きはしない。

さらに、走り出すことのできた自動車を、
止めることができなければ、
その自動車に乗るわけにはいかない。

そして、走ったり止まったりしてくれる自動車を、
右や左に方向転換させられなければ、
自動車は、どこにも行くことができない。

もっと言えば、そうした自動車のままでは、
夜道は暗くて走れない。

雨の日には、目の前の視界をよくしてくれる仕組みも、
必要になるに決まっている。

などということを考えていくと、
エンジンのような根本のところの発明や改良以外の、
あんまり年表に掲載されにくいような発明がなかったら、
自動車は、いまのように走っていないはずだった。

「空気を入れたゴムのタイヤ」を、ぼくらは
もっとスゴイものとして見なくちゃいけなかった。
こいつがなかったら、自動車の車輪は
いまだに木製かもしれず(それは、まさかだけど)、
乗り心地なんて概念すらなかったかもしれない。

蒸気機関、エンジンのような
メインに思える発明は、そのすべての核になるけれど、
無数の気づきにくいような脇役的な発明がなかったら、
クルマに乗る人たちは、こんなに増えるはずがなかった。

このところ、続けて、
大量生産の工場を見学する機会があった。
あらゆる場所に、「ちょっと改良」した部分があり、
「ちょっとした工夫」の積み重ねで働き方ができていた。
このすべてをマニュアル化しても、
同じことを真似できるようになるまでには、
きっととんでもなく長い時間がかかることだろうと思う。

このことは、工業にかぎらない。
基本的に、あらゆる意味でのシロウトばかりで始まった
「ほぼ日刊イトイ新聞」にしたって、
5年も続けているうちには、小さな改良の積み重ねが
知らず知らずのうちに溜まってきている。
ハンドルの発明があったとも思えないし、
ブレーキの改良があったような気もしないけれど、
なんだか、この自動車は、たしかに走っているものなぁ。
根性とか動機とかだけでない、
見えない改良や、気づきにくいような技術の進化が、
あったからこそ、なんとかなってきているのだと思う。

よく日本人は、根本的な発明が苦手で、
改良することが得意だという言い方がある。
少し、そのことを低く考えているような言い方が多い。
だけれど、ほんとうは、それって、
スゴイことなんじゃないのかと思えるようになっている。
だって、それは、「使える」ようにするってことだろう。
「ある」というだけではしかたがない。
実際に使えるようにするためには、
人間が、どういうものを必要としているのかというような、
人情の機微をよくわかっていなくてはならない。
そこの部分が得意な日本人って、スゴイんじゃないか?

それが苦手な大発明家以上に、
そういうことの得意な平凡な民の集合って、
とても素晴らしいんじゃないか?

これから、ますます「ソフト」の大事な社会になるだろう。
そのときに、これだけ進みきってしまったモノやコトを、
大転換させるような大革命などというものは、
いままで以上に困難になるだろうし、
仮にあったとしても、迷惑なことも大きそうだ。
そういうときにこそ、改良だの、改善だのという
いままではたいしたことないと思われがちだったことが、
人間を大事にする視点で
しっかり行われていくということが、
ほんとうに価値を持つようになるのだと思う。

ふと、クルマのタイヤのことを思って、
こんなことを思いはじめたのでした。


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2003-05-12-MON

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