<ソフトマネー>
「ほぼ日」に連載をしてくれていた末永徹さんから、
ずいぶん前に聞いたことが、
いまでもとても役に立っている。
それは、「ソフトマネー」という概念だ。
マネーには、ハードマネーとソフトマネーがあるという。
ハードマネーというのは、文字通り「お金」のことだ。
貨幣のかたちをしていなくても、
たとえば、預金通帳に記載されていれば、それはお金だ。
つまりは、いくら、とハッキリしたお金が、
ハードマネーだと思えばいい。これはわかりやすい。
いっぽう、「ソフトマネー」というのは、
たしかに価値があるのだけれど、
明確に数字として表現できない。
たとえば、いまこれを書いている部屋には、
テレビ番組が流れていて、
高校生たちが、懸命に野球の練習をしている姿を
映しだしているのだけれど、
「この経験は、大きな財産になる」というような
ナレーションがついている。
その「大きな財産」は、いくらなのか?
ハードマネーに換算することはできない。
1銭にもならないとも言えるし、
数億でも足りないくらいだとも言える。
「あなたには、いろいろお世話になっているし」と、
何かを引き受けてもらったとしたら、
そこにハードマネーのやりとりはないけれど、
大きな価値のやりとりがあったとも言える。
オヤジに、説教されたりするのも、
「聞いてられねぇよ」と思うかもしれないけれど、
ひょっとしたら、後に、それが金額になおせないほどの
大きな価値ある時間だったことがわかるかもしれない。
逆に、感情にまかせて無駄な怒りをぶつけられて、
価値ある時間や意欲を失うということだってあるだろう。
いいともだちとの、たのしい思い出も財産だ。
泣きに泣いた失恋だって、大きな投資だとも言える。
そういう、見えない価値のことを
「ソフトマネー」という表現で聞いたとき、
なんだかものすごくヒザをうった。
たしか、「ほぼ日」をやっていて
苦しさもピークに近いころだった。
オレは、ハードマネーにはあんまり恵まれてなかったけど、
ソフトマネーには恵まれていたなぁ、と思った。
「ソフトマネー」で考えたら、ぼくは大金持ちだと思った。
「ソフトマネー」という考えを採り入れたら、
ぼくらはものすごい財産を持っていると思った。
しかも、「ソフトマネー」ってやつは、
大盤振る舞いで配れば配るほど、大きく増えて帰ってくる。
ぼくみたいな軽い人間の口から言うのもなんだけど、
誠実にやっていることで得られる信用というのも、
大きな「ソフトマネー」だ。
ハードマネーをいっぱい持っていても、
「ソフトマネー」が貧しい人だっている。
景色ばっかりはいいんだけどねぇ、と苦笑いする田舎には、
その景色のなかに大量の「ソフトマネー」が埋まっている。
資格も持ってないし、履歴書に書くような特技はなくても、
友人たちに「あいつも呼ぼうよ」と言われるやつは、
「ソフトマネー」をたっぷり持った豊かな人間だ。
「ソフトマネー」というのは、宗教の言葉でいう
「天に積む宝」なのかもしれない。
たしかに、現世では
「ソフトマネー」を担保に金を貸してはくれない。
だけれど、その「ソフトマネー」のあるところには、
人々の見えない協力が得られたりもするし、
何よりも、自分が豊かでいられる。
その豊かさは、ハードマネーでは買えないものなのだ。
ぼくらは、ともすれば世の中の「貨幣信仰」のなかで、
ハードマネー以外の価値を見失いがちになる。
あらゆる価値が、ハードマネーに換算されるし、
そうやって換算されない価値は、
だいたいは、無いことにされてしまうことが多い。
しかし、ここで「ソフトマネー」という言葉を思い出そう。
人に親切をする人間は、その意味で大金持ちだ。
優しい人は、最高に豊かに生きている人だ。
たっぷりとした「ソフトマネー」を、
貧しい人々に施しているソフトな大金持ちたちは、
あちこちにたくさんいるはずだ。
たくさんのハードマネーを獲得した人たちも、
結局は、それでは買えないものを欲しがるようになる。
最初から「ソフトマネー」をたくさん持っている人は、
欲しがるより先に、どんどん配ろうとする。
おもしろいもんだ、世の中は。
ただね、「貧すれば鈍する」という法則もあるし、
「衣食足りて礼節を知る」という言葉もあるので、
金銭的に貧しい人が、必ずしも
「ソフトマネー」を豊かに持っているわけではない、
という言い方もできるんだけどねー。
最後に参考に、ぼくとしてはかなり珍しい引用をしておく。
中沢新一の、大学での講義録をまとめたシリーズに、
『愛と経済のロゴス』(講談社選書メチエ)
という本がある。
そこに、あのマルクスの『経済学・哲学手稿』という
古典が引用されている。
孫引きになるけれど、記しておく。
「人間を人間として、また世の中にたいする彼のあり方を
人間的なあり方として前提とするならば、
きみは愛をただ愛とのみ、信頼をただ信頼とのみ、等々、
交換することができる。
・・・・・きみが愛することがあっても、
それにこたえる愛をよび起こすことがないならば、
換言すればきみの愛が愛として、
それにこたえる愛を生み出すことがないならば、
きみが愛する人間としてのきみの生活表現によって、
きみ自身を、愛された人間たらしめることがないならば、
きみの愛は無力でであり、一つの不幸なのである」
・・・・泣かせるでしょ。
この中沢新一のシリーズは、ほんとうにいいよ! |