<絶滅してくれ、目くじら。>
左官屋のことを「しゃかんや」と
読んでいいのか悪いのかというようなことが、
「ほぼ日」に届くメールのなかで話題になってる。
これはこれで、たのしいサロンのおしゃべりになる。
広辞苑でも「しゃかん」という単語はでていて、
「→さかん」と書いてあるから、
正しかろうが間違っていようが、
事実上、広まっているということがわかる。
魚の鮭(しゃけ)も、
ほんとうは「さけ」かもしれないけれど、
実際に、すっかり普及してしまっていることばだ。
実は、ぼく自身の好みとしては、こういうの大好きさ。
落語家の人たちは、古い江戸の方言を再現するもんだから、
もっとすごい読み方をしているよ。
蛙(かえる)のことは、
はっきりと「かえろ」と言うもんなぁ。
吉原などの女郎(じょろう)は、
これまた明確に「じょうろ」と発音している。
「じょうろ買い」というような言い方ね。
ただ、またまた広辞苑を調べてみたら、
「じょろう」も「じょうろ」も、
どちらもでているんだよなぁ。
さすがに、「かえろ」はでてなかったな。
でも、話の流れのなかで「かえろ」が
「カエル」のことであることは、十分に伝わる。
それで別にかまわないじゃないかと、ぼくは思ってしまう。
評論家の呉智英が書いてから、
「須く(すべからく)」ということばの誤用について、
とてもおおぜいの人が注目するようになったけれど、
もともと呉智英は、
「すべからく」に代表されるような
「むつかしそうなことばを、えらそうに使う」人の
イージーな教養主義をからかいたかった
ということなのであって、
「すべからく摘発組」を組織したかった
わけじゃないと思うんですけどね。
それでも、「すべからく」が「べし」に結ばれてない
文章があると、どっとそれを指摘する投書が増える。
同じように、うまいものを食べて
「したづつみ」をうつという人がいると、
それに過敏に反応する人がいる。
「舌を包むんじゃないだろう、
舌で鼓(つづみ)をうつんだろう。
したつづみと言いたまえ!」と
説教を始めたりするのだけれどねぇ。
「腹鼓(はらづつみ)」という表現も
許されているんだし、
別にそこまで怒ることもないだろうにと思う。
ぼくは、ちょっと挑発的に
じゃんじゃん「したづつみ」をうってみたくなる。
ことばにしても、行動にしても、
まちがったことをそのままにしておくのは、
我慢できないことかもしれない。
そういう気持ちも、わからないわけではない。
しかし、だからと言って何が困るのだろうか、と、
ちょっとおちついて考えてみちゃぁくれまいか。
世の中にあるバグのような「言いまつがい」だの、
方言だの、発音のまちがいだのを、
そんなに厳密にチェックする必要があるんだろうか。
ぼくは、まったく自慢にはならないことだけれど、
あるときまで、「来日」を「らいじつ」と言っていた。
「市井」の読み方は、頭ではわかっていても
つい「いちい」と読んでしまっていた。
「出自」は、どうしても「でじ」と言いたくなって
グッとこらえて「しゅつじ」と読んでいたりする。
そのくらいダメなやつではある。
しかし、それがそんなに恥ずかしいことだとは思ってない。
自慢でないのは確かだけれど、
たいしたことじゃないと思う。
ぼくだって、
日本語を大事にする、ということには賛成なのだ。
例えば、「いい表現に感じ入ること」などは、
ぼくにとっての、ことばを大事にするということだ。
細かいミスに目くじらを立てるということではない。
なんかさ、標準的で、まちがってないものが
世の中のぜんぶになっちゃっているような感じが、
どうにも、ぼくには、いごこちがよくない。
適当に、いろんな間違いが混じっているくらいが、
世界をおもしろくしているんじゃないのかね。
正しさというのは、いろんな価値のなかで、
必ずしもいちばん高いものではない。
ぼくは、そう思っている。
目くじらの野郎が、泳ぎまくるほど、
世間がつまらなくなると、思っていいんじゃないかね。
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