ITOI
ダーリンコラム

<焼き豚を語るコトバ>

先日、焼き豚を食べながら、焼き豚の話題になった。
その食卓を囲んでいたひとりの客人が、
「日本に多いのは、焼き豚でなくて『煮豚』である」
という話をはじめた。
たしかに、そうなのだ。
チャーシューと呼ばれているもののほとんどが、
糸でグルグル巻きにした豚肉を、たれで煮込んだものだ。
その通りだとは思うものの、
なんとなく、その話は「なんかちがう」ような気がした。
煮豚の話をした人は、立派な人で、
何も間違ったことを言ったわけじゃない。
ただ、なんだか、この「焼き豚の語られ方」に、
自分がもっと考えるべき宿題を感じてしまったのだった。

その後ずっと、なんだったんろう、と考えていた。

自分でもよくやることなのだが、
「ひとつのものを肯定したり賞賛したりするために、
他のものを並列的に例にひいて、そちらを否定する」
ということが、
最近ぼくがよく言っている
「消費のクリエイティブ」を、
育ちにくくさせているのではないか。
そういうことが、気になったのだろうと思った。

うまい焼き豚を語ることが、
うまい焼き豚そのものを語ってできたら一等いいはずだ。
しかし、それは難しいことではある。
そんなときに、
「焼き豚と呼べないのに焼き豚といわれているものがある」
という情報が加わるだけで、
いま現在目の前にある焼き豚の価値が上がる。

しかし、それは、目の前の焼き豚の社会的価値は上げても、
焼き豚そのもののクリエイティブを
受けとめたことにはならないのではないかと、思うのだ。

あちこちで、こういうことはよくある。
他人の家の子供が、何かに失敗した話をすることで、
うちの子供をほめる方法とかね。
「さっき歩いていたシーズー、ブスだったわよー」と
言うことで、自分のうちの飼い犬がカワイイと言う。
刺身を食べながら、
「こないだ食べたの、なんか水っぽくておいしくなかった」
なんて言ったりもするし。

並列に語るべき他の何かがダメだからといって、
「それ」の訴えている良さを味わったことにはならない。

だけど、そういう相対的な評価軸を持つと、
なんでも言えてしまうので、とても便利なのだ。
その便利を、ぼくらが手放すことはとても難しい。
でも、簡単な便利を、いったんは「ない」ことにするのが、
これからの「消費のクリエイティブ」の
練習なのではないだろうか。

敵のあらを探すことで、安心できたりもする。
比較される何かより勝っていることを見つけたら、
優れているような気がする。
でも、そういうことをいったんやめてしまうのが、
ほんとうに「消費のクリエイティブ」を
成熟させることになるし、
ひいては、クリエイティブな生産をつくりだすことになる。
これが、豊かさというものを生み出していくための
大きなヒントなのではないだろうか。

「日本の焼き豚のほとんどが煮豚ですから」
という発言から、
会話をクリエイティブな展開にもっていくために、
その場にいた他の客人は、どうすればよかったのだろう。

「焼く時の火力が外側の肉の食感をつくっている」こと、
「肉の内側に閉じこめられたうま味」について、
「適度に落とされている脂がさっぱり感になる」とか、
いちいち自分の考えや思いを生み出さねばならなくなる。
こりゃ、なかなか簡単じゃない。
しかし、語れなければただ素直に、
「うまいですねぇ」と心から言っているという
永遠の奥の手だってある。
煮豚を貶めないで、焼き豚を誉めることはできるのだ。
いや、それどころか、
「それもそうだけれど、うまい煮豚はうまいんですけどね」
というような、逆説を提示することだって、可能だ。

「ほぼ日」に届けられるたくさんの読者からのメールが、
「あれはダメだけれど、それに比べて」というような
ホメ方がとても少ないのは、ほんとうに素晴らしい。
よくインターネットの掲示板が疲弊していくのは、
ダメな例を軸にして、誉めているうちに、
袋小路に入り込んでしまう場合が多い。

ホームランを見た瞬間に、
他のホームランを打たなかった選手について
語るようなことは、ふつうしないものだ。
心からホームランの気持よさを感じるだけでも、
消費のクリエイティブは働いている。

どうざましょ、「ほぼ日」読者の皆さま方。
いいと思ったものを、他と比べないで誉める練習ってのを
やってみる遊びをやってみるのは。
けっこう、むつかしいんだけれど、
自分の肥料になるような気がするんだ。

じゃ、また来週ね。

2000-11-13-MON

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