江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

テーマ2 「グルメ登場!
 料理小説と大隈家の台所」

その3
大隈重信邸の台所をじっくり見よう。

ほぼ日 じゃあ、大隈さんちに、
ちょっと戻りたいと思います。
この、大きい台所の絵も
大隈邸なんですよね。
田中 「大隈重信邸台所」という絵ですね。
これも『食道楽』の挿し絵です。
これまでとの大きな変化は、
立って料理をするということでしょうかね。
ほぼ日 立って調理するっていうのは、
それまでは、座っていたんですね。
アジアの国や、インドから中東なんかでも
一般の家庭では
土間で調理するのって、案外ふつうですよね。
日本もそうだったんだ‥‥。
この絵だと、
座って、正座したり
立て膝ついたりしてますよね。
大隈さんちの絵も、
ちょっと遠近法がおかしくって、
立ってるか座ってるかわかりにくい人も
いますけど、みんな着物で、
たすき掛けしてますね。
あ、してない人もいるけど。
田中 たすきは、つまり、
割烹着がまだなかったってことですね。
ほぼ日 あ、割烹着してない!
田中 実は、割烹着というものは、
この村井弦斎の奥さんの多嘉子さんが、
第一号ではないかとも言われているんです。
発明したのは弦斎だと。
ほぼ日 割烹着の発明者!
田中 洋行で、メイドのエプロンや
手術着みたいなものを目にしたらしいです。
それでのちに『食道楽』で発表したんですね。
そしてこの絵には、
調理用のでっかいストーブがありますね。
ほぼ日 英語で言うストーブ、
オーブンですよね、要するに。
田中 そうですね。こっちの絵にも描かれています。
ここ、見えますか。
ほぼ日 あ、見えます。
田中 地下のほうで。これは岩崎男爵邸の
台所なんですけれども。
ほぼ日 岩崎弥太郎の?
田中 弥太郎の弟の弥之助ですね。
弦斎の奥さんの多嘉子さんは、
岩崎家とも親戚筋でしたからね。
で、岩崎家の台所には地下があって
オーブンがあったんですね。
ほぼ日 すごい‥‥
これ、要するに、今でも、
アメリカやヨーロッパで使われているものに
近いかたちですよね、わりと。
田中 そうですね、はい。
この調理用のオーブンっていうのが、
「火加減」ができるんですね。
西洋料理を作るのに、
強い火が欲しいときには、
七輪ではやはり限界があるというので、
オーブンが入ってきた。
火の熱も、この角に乗せると
弱くなり、真ん中に寄せてくと強くなる。
華族のお屋敷などには、
当時、万能の調理器具として迎えられたんですね。
しかし庶民に買えるものではありませんよね。
となるとやはり七輪に
なってしまうんでしょうね。
憧れの調理器具のひとつだったのでしょう、
オーブンというものは。
ほぼ日 火は、ガスですか?
この、蛇口みたいなの、
あるじゃないですか。
ガスの元栓みたいですよ。
田中 あー、ありますね。
『食道楽』を読んでみましょうか。
‥‥あっ。オーブンの火力、
ガスですね。そういう記述があります。
大隈家の台所、ガス式ですね。
ほぼ日 どれどれ。読んでみますね。

「‥‥石炭や薪炭のかわりに
 何でもガスを使う仕組みですから、
 煙が出て燻る憂いはなし、
 石炭や薪を運ぶ手数もなし、
 鍋の裏に煤がついて洗うという世話もなし、
 急いで火を起こすという世話もなし、
 火が要るときは一つネジをひねるばかりで、
 強くも弱くも自在な火ができて、
 何時間でも平均した熱度を与えられますから、
 ガス竃になって以来、
 一度も飯の出来損じがないそうです」

うひゃあ、大隈家の台所、すごい。

「それで時間も早くできます。
 一升の飯が十三分、二升が十五分、
 三升が十八分と、時間が一定していて、
 じわじわ時に蓋取るなと
 叱られる世話もありません。
 ストーブの方もその通り、
 西洋料理でも日本料理でも、
 火力が一定しているから
 一度火加減さえ覚えれば
 早くできて失敗がありません。
 それお客だ大急ぎでお料理をこしらえろと
 いうようなときに、
 ガスストーブだとどんなに
 楽かしれないそうです。
 それで費用はどうかというのに、
 以前、石炭や薪の時代に
 台所だけで一日一円五十一銭掛かったのが、
 ガスになって九十五銭で済む。
 費用も少なく清潔で便利で
 人の手間もよほど省けます」

すごい、「ジャパネットたかた」の
宣伝文句みたいです。
田中 どうですか奥さん! みたいな感じですよね。
ほぼ日 それにしても、相当でかい、この釜は。
羽釜ですよね。
お風呂みたいな大きい釜!
田中 はい、そうですよね。
この人間からすると、
もう相当でかいですからね。
大人数の食事をつくることが
できるようになっていたんですね。
来客が、平日でも60人、
園遊会があると何百人分の
料理を作ったといいますよ。

「コック部屋が五坪、
 板の間と三和土が二十坪、
 合わせて二十五坪
 すなわち五十畳敷きありますが
 屋根にガラス張りの
 大きな明かり取りがあって、
 台所全体の明るいことと申したら、
 塵一つ隅に落ちていてもすぐ見えます。」
ほぼ日 すごい‥‥
日本の台所の最先端だったんでしょうね。
あ、壁にフライパンというか
鍋が並んでいますね。
田中 うん、掛けてありますね。
ほぼ日 これ、西洋式ですよね、
田中 そうですね。ま、西洋式だけれども、
やはり、ちょっとこう、
「和」が入りますよね。
神棚がありますしね。
ほぼ日 そうか、出来上がりの料理を見ると、
この日は和食だったようですね。
お膳で給仕してますし。
いわゆる煮物と、
たとえばお刺し身とか揚物とか。
ほぼ日 ここに野菜とかを置いてあるんですね。
蕪に大根に茄子に‥‥
作ってる人は、男の人ですね。
田中 ええ、そうですね、やはり
職業としての調理人は
男性だったんでしょうね。
ほぼ日 男の人たちは、洋装してますよ。
制服っぽい。
田中 女性が洋服になっていくっていうのは、
もうほんとに、昭和の、戦後の話ですからね。
ほぼ日 男性、調理人は洋装だけれど
お客さんかご主人かわからないですけど、
食べるほうは着物ですね。
こういうところを細かく見ていくと面白い!
ほぼ日 村井弦斎の教養って、
さぞや広かったんでしょうね。
田中 村井弦斎の家も、
大隈重信邸ほどではないにしても、
美食サロンみたいな感じだったようですよ。
大隈重信が来たりとか、
味の素の創業者の
鈴木三郎助(さぶろうのすけ)や、
森永製菓の森永太一郎(たいちろう)など、
そのあたりの財界人も来て、
みんなで、旨い料理を食って、
こんな料理もあるのか、みたいな感じで、
教養を高めていたと。
ほぼ日 なるほど!
調理器具は、けっこう今のと
変わらないですね。
おろしがね、包丁、
これ、たぶん調味料コーナーですよね。
塩壺と、味噌樽とか。
田中 あ、しゃもじがありますね。
ほぼ日 あ、しゃもじありますね。
ここらへんで、なんか、調合して調理して。
ほぼ日 たぶんこれ、見えないけど、
ここに包丁があるってことは、
カッティングコーナーとか、
見えないとこにあったんでしょうね。
岩崎男爵邸と同じように。
田中 立ったまま調理できる台がね。
この大隈邸の台所が、すごくよいと、
『食道楽』でも絶賛されているんです。
だからもう、ハッキリ言って、
これは庶民には無理ですよね、
この暮らしは。
ほぼ日 無理ですよね。
でも、憧れを見せてあげることは
大事なことだったんだと思います。
この本は庶民が読んでいたんですものね。
田中 もう明治36年ですからね、
文字の読めることが
普通になってきた時代ですよね。
もう日露戦争の頃ですから。
相当、教育も進んで。
ほぼ日 明治生まれだったうちの祖母だって、
田舎の娘だったはずですが、
ふつうに読み書きの
教育は受けていたと言いました。
本を読むことが特別なことでは
なかったと思うんです。
だから、好奇心さえあれば読んだと思う。
この頃は、電気はあったんですよね?
田中 電気はありますね。
ほぼ日 冷蔵庫は?
田中 冷蔵庫は、まだないですね。
ほぼ日 あ、時計がありますね。
タイムリミットがあるからね。
えーっと、夕方の5時50分!
急げ! とか、言ってたのかもしれない。
田中 時計の普及っていうのも、
西洋料理には欠かせない
ものだったんでしょうね。

これにてこの回はおしまい。
田中さん、ありがとうございました!
次回は、学芸員の「小山周子さん」に登場いただき、
カフェの文化についてお聞きします。
お楽しみに〜!

2003-09-24-WED
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