江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!

テーマ5 女性みんなが「銘仙」を着た時代。

その1
1億反、織られたんだって!?

今回からのテーマは「銘仙」です。
明治の後期に生まれ、大正から昭和を駆け抜けた
女性の着物の大流行、それが「銘仙」。
いかにすごいブームだったかを、
今回も、江戸東京博物館学芸員の
小山周子さんに、お聞きしてきました。



小山さん、今回もよろしくお願いします!

ほぼ日 今日は、「東京流行生活展」で
かなり大きな展示スペースをさいていた
「銘仙」についてお聞きしますね。
前に三越の広告の「新案家族衣裳合はせ」で
女中さんの着物に
「銘仙」って書いてありましたよね。
小山 そうでしたね。これですね。
ほぼ日 ということは、カジュアル‥‥
っていうのともちがうけれど、
奥様とかお嬢様とかのところではなくて
お女中さんのところに
銘仙が出て来たということは、
普段着みたいな感じなのかなと
思ったんです。
小山 ふむふむ。
ほぼ日 それから、じつはこの間、
「東京流行生活展」を
糸井と一緒に回ったんですけど、
その時にこの「銘仙」に
感激していたんですね。
強いインパクトを残すものって、
「一生懸命やらざるを得なかったもの」
ならではの迫力と面白さがあるって。
小山 なるほど。
ほぼ日 糸井の推理では、
このデザインは、銘仙が生まれた
群馬の伊勢崎の人たちが
一生懸命やったんじゃないかな?
って。
デザインソースは外国の流行で、
それを取り入れたんじゃないかって。
とにかく作ろうと思って
一生懸命作ったものが
こういうふうにインパクトを残す
ものになったんじゃないのかな? って。
さて、実際どうなんでしょう!?
小山 コホン、では、実際の話を。
ほぼ日 ぜひ、してください!
小山 「新案家庭衣裳合はせ」に
載っていることでわかるように、
明治の頃から「銘仙」っていうのは
主要な百貨店の、主力商品だったんです。
お女中さんの第一位に来てるくらいなので、
もう売れていたんですね。この頃から。
ほぼ日 明治の終わりですね。
小山 その資料はそうですね。
実際は明治の中頃から
売り始められていたんじゃないかと
いう話なんですけれども。
ほぼ日 展示してある銘仙は、
どれも強烈なデザインでしたね。
最初から、インパクトの強い
織物だったんですか?
小山 違うんです。
最初は柄とかも非常に地味で
奥様とかお嬢様が着るものではないと。
いわゆるボロ糸というんですか、くず糸。
ほぼ日 ダマができちゃったみたいな?
小山 ボツボツになった絹の糸。
絹の糸ってやっぱり、高級なものは
細くてまっすぐで
すごくツヤツヤな感じですよね。
でも初期の銘仙っていうのは
そういう糸じゃなくって、
もう本当にボソボソの糸で
作っていたこともあって。
ほぼ日 絹は絹でも‥‥
小山 劣るというか。だから普段着として
着られていたんですね。
そういう意味で女中さん向けだったんです。
ほぼ日 なるほどね。
「新案家庭衣裳合はせ」の時代、
明治の終わり頃は、
そうだったんですね。
小山 それが大正時代に入って変わるんです。
だんだん丈夫な糸で
織られるようになったこともあって。
生地自体が丈夫になった。
ちょうどその頃、
女の人たちがどんどん
活発になっていきます。
外に出て行く機会というのも、
もちろん働きに行くようになったり、
女学生なんかは学校に着て行ったりとか、
あとはちょっとしたよそ行きとしても
着られていくんです。
ほぼ日 そっか!
小山 銀座の街を歩くっていうことを
どんどんみんながやり始めていて、
その歩くっていう行為は
そんなよわよわっとした
本当のおしゃれ着よりも、
ある程度丈夫であるほうがよかった。
ほぼ日 なるほど!
小山 それでだんだんと人気が出始めて、
大正末期から昭和前期、
戦前まで、非常に多くの人に
着られていたんです。
考現学の今和次郎の調査っていうのが
あるんですけども、
大正14年の5月の銀座で
一番女の人が着ていたのが、
洋服でもなく友禅でもなく
銘仙だったんです。
ほぼ日 どのくらいの割合だったんですか?
小山 羽織と着物を合わせると
51%という結果が出ています。
で、多分おそらくこの当時、
銘仙っていうのは非常にいろんな
バリエーションが出て来ていて、
生地がフワフワっとした感じのものも
あったんですね。
だから、今和次郎たちが見落としたけれど
実は銘仙だった着物もあるかもしれない。
それを考えると、
たぶんおそらくもっと実数的には
多かったんじゃないかと思うんです。
ほぼ日 パッと見て銘仙って分かんないけど
実は銘仙だみたいなものが
あったんじゃないかとか。
小山 そうなんですよ。
というのも、大正の後期から
昭和の何年かまでの10年間の
統計を見たんですけども、
銘仙っていうのがだいたい1億反。
ほぼ日 ええっ? 1億?
小山 ぜーんぶ合わせて
1億反も売れていたんです。
ほぼ日 すっごーい!!!
1億反っていう数でびっくりしてますけど、
実際想像がつかない数字です。一億反。
小山 ユニクロのフリースが
すごく売れた売れたって
言われてた時でも、
1年間に2500万着なんですね。
それを考えたら、
人口が今より少ない時の
1億反っていうのは
10年間でとしても、
1年に1000万反。
凄い数字だと思うんですよ。
ほぼ日 ひとりの人がたくさん
持ってたっていうことですか?
安かったのかな?
小山 そうなんですよね。
糸が粗くて劣るってことは、
要は値段が非常に安いということで、
一般の人がどんどん
買うようになったんです。
ほぼ日 あの、ごめんなさい、
初歩的な質問をしますけれど
そもそも銘仙っていうのは
ブランド名じゃないですよね。
カテゴリー名?
一個の会社が作ってたんですか?
小山 いえ、伊勢崎とか足利とか
関東地方を中心とした
あの地域で作っていた平織り、
普通に織った絹織物のことを
「銘仙」って言うんです。
ほぼ日 そのことを言ったんだ。
じゃあ別に登録商標って訳でもないし、
例えばエルメスみたいな
意味ではないんですよね。
小山 ないんですね。そうなんです。
ほぼ日 どっちかっていうと
「フリース」、みたいな
生地のことを言ってる訳ですね。。
小山 生地ですね。そうです、そうです。
で、まあその中でも一番多く生産してたのが
群馬県の伊勢崎だったので、
今回は伊勢崎にスポットを当てたんです。
ほぼ日 小山さんが集めてきたんですってね。
小山 いきなりお電話をかけまして、
今度「東京流行生活展」っていう
展覧会をやるので、
何かそちらに着物とか
そういったものはありませんかって。
で、びっくりされちゃって、
「ええっ? うちにそんなのあるかなあ」
とかって。
ほぼ日 ちょっと忘れられかけてたんですね。
小山 でもまあとりあえず
古いものはあるから来るだけ来なさいっ、
ていうふうに言われたので、
伊勢崎に行ってみたらですね、
一番最初に見せられたのは
今回、いっぱい展示してある
布見本なんです。
ほぼ日 標本みたいでした。
小山 あれ、見本帳なんです。
もともとは本になっていて、
素敵な生地がいっぱいあるので、
ばらばらにして展示することに
なったんですよ。
あれは私の、
一番最初に見せてもらったときの
感激をそのまま展示しているんです。

ほぼ日 迫力ありますよね!
お客さんの様子を見ていたんですが、
高齢のおばあさまに近いおばさまたちが
「母が着てたわ」とか
「祖母の着物の柄でこういうの覚えてるわ」
とかね、話してましたね。
小山 懐かしがっていただけたかな。
ほぼ日 あとね、
「今考えてもモダンよね」
ってびっくりしてました。
たしかに、今ないデザインですね。
ちょっと独特ですよね。
小山 そうなんです。
ほぼ日 あ、でも、
ちょっと待ってください。
ってことはこういうデザインって
最初からじゃなかったってことですか。
最初は地味だったって。
小山 そうなんですよ。
やはりこういうデザインっていうのは
昭和のモダンな時期に作られた
デザインなんです。
明治の時は地味な感じだったんです。
ほぼ日 ちょっと質が落ちるけど
丈夫で地味な着物だったんだ(笑)。
小山 もちろん昭和の頃も
そういった渋めのものも
作られていたんですけれども、
若い女性とか中年の女性くらいまでは
こういった華やかなものが
流行してたんです。
ほぼ日 これ、分かった!
ジーンズだ!
ジーンズって最初は労働着ですよねえ。
西部開拓時代の炭坑夫の。
小山 はいはいはい。
ほぼ日 で、当然丈夫ですよねえ。
最初はおしゃれじゃなかったんですよ。
でもあれもどっかで転換が起きて、
今でも作業着でありながら、
おしゃれなものになったじゃないですか。
それだ! 大正昭和の
女性のジーンズだ、これ。
小山 なるほど(笑)。
おもしろいです。

1億反って、やっぱりすごい!
次回は「誰がデザインしていたのか?」
「流行をつくったのは、誰だったのか?」
ということについてお聞きします!
お楽しみに〜!

2003-10-10-FRI
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