芳賀 |
武士は、腕力ではなく、行政能力とか、
学問の力とかで出世をする、名を上げるという、
そういう時代になってきていたんですね。
18世紀の半ばから後半にかけて。
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糸井 |
そして賢君が、日本中にたくさんいたんですね。
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芳賀 |
高松藩の殿様である源内が仕えていた松平頼恭が
描かせた魚の図譜とか、野菜の図譜、
花の図譜とか鳥の図譜は、
今回の展覧会にたくさん出ております。
あれは、今回の展覧会の目玉ですよ。
あんなにズラーッと出たのは、今回が初めてです。
今までどこにも出たことありません。
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【衆鱗手鑑目録 乾・坤:松平頼恭】
【衆鱗図 第一帖:松平頼恭】 高松松平家歴史資料(香川県歴史博物館保管)
【衆禽画譜(水禽):松平頼恭】 高松松平家歴史資料(香川県歴史博物館保管)
【衆芳画譜 第五(花果):松平頼恭】 高松松平家歴史資料(香川県歴史博物館保管)
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糸井 |
情報のアーカイブ化ですよね。
その時代、ほかの藩主も
同じようなことを?
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芳賀 |
熊本藩の、細川元首相のご先祖の殿様。
それから‥‥。
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糸井 |
西洋の風を入れている人が多いですよね。
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芳賀 |
そうですね。みんなそうですよ。
それから秋田の、佐竹の殿様。
ぜんぶ揃って展示されてるのは今回が初めてです。
だから、ぜひみなさん、よぉーく見て。
あれでもう、博士論文何本も書ける。
今からでも遅くありません。
どうぞやって下さい。
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会場 |
(笑)
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芳賀 |
糸井さんも。糸井さん、学位持ってる?
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糸井 |
いや‥‥。
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芳賀 |
あ、んじゃ、どうぞ。
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糸井 |
(笑)。
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芳賀 |
ひじょうに珍しい機会ですから。
徳川時代、学問に興味を持ち、自然に興味を持ち、
そういうことがひじょうに
盛んになってきた時代が、
あの18世紀の半ばから後半にかけてなんですが、
その時代を代表するような大名たちの作品が、
あるいは大名たちがやらせた作品が、
ここに今回まとまって出てるんです。
ひじょうに面白い時代です。
それから、そのころに、
米沢藩の上杉鷹山(ようざん)がいますが、
ま、上杉鷹山は、ちょっとしみったれの
殿様だからね、ちょっと儒学に
かぶれすぎてたんじゃないでしょうか。
つまんない先生について、
なんでも倹約しろ倹約しろって。
でも、崩れかかった藩を再建した、
彼はやっぱり中興の名君ですよね。
そういう名君、賢君が、
あちこちに出てきた時代なんですよ。
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糸井 |
それぞれの藩ごとの経済構造がしっかりして、
競争力がついてきて、名産を作ってみたいな?
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芳賀 |
うん、そうそうそう。
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糸井 |
つまり、産業が出てきたっていうことですか?
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芳賀 |
そうですね、殖産興業っていうことが、
徳川吉宗の時代からさかんに言われて。
それから、徳川吉宗と一緒に紀州から出てきて、
やがて幕府の老中格になっていった田沼意次。
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糸井 |
あ、はい。
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芳賀 |
あれも殖産興業で、今で言えば、
経産大臣と財務大臣と江戸東京博物館の館長を
兼ねているような男だったんですね。
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糸井 |
なるほどね(笑)。
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芳賀 |
その田沼の影響が諸藩に及んで、
日本国中で、その殖産興業、産業を開発し、
産物をたくさん作り、
それぞれの地域の名物を作ろうという、
そういう運動が全国的に広がった時代。
それと、あの、博物学の研究は‥‥
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糸井 |
一緒ですね。
源内も、博覧会というものを開いたんですよね。
つまり、全国でばらばらに地方があったものが、
だんだんと、全体の中の各地方っていう
考え方になっていった。
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芳賀 |
うんうん、そう、さすが明敏な糸井重里。
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糸井 |
今日はずいぶん褒めますね!
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芳賀 |
図星ですよ。ほんとにそうなんです。
あちこちで動き出していたのを、
平賀源内が、いわばネットワークをつないだ。
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糸井 |
ネットワークですね、うんうんうん。
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芳賀 |
平賀源内が、宝暦12年、1762年5月ごろ、
源内主催で、いちばん大きな物産博覧会、
第5回物産会「東都薬品会」を
江戸の湯島で行うんです。
このとき、1千点以上集めています。
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【東都薬品会主品目録】東京大学付属図書館蔵
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糸井 |
おもに植物ですか?
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芳賀 |
鉱物もありますし、動物もありますし。
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糸井 |
動物って、どういうふうに?
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芳賀 |
ミイラみたいになったのを、
焼いて粉にして食べると薬になるとか。
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糸井 |
漢方薬屋みたいなもんですね(笑)。
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芳賀 |
ま、ほとんどね。
本草学(ほんぞうがく)っていうのは
漢方薬の学問で、そっから始まって、
それが物産学というふうになって。
薬になるものだけじゃなくて、もっと広く、
薬だけじゃなく、役に立つ動植物、鉱物を
調査して発掘してくる。
源内の時代になりますと、それをあるていど
整理して、いわば博物学の体系を
つくろうとしていた。
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糸井 |
体系をつくって、こんどは役に立てるために、
っていう橋渡しをするわけですね。
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芳賀 |
役に立つことを越えて、
役に立たなくてもいいから、
日本国内にどういう動物、植物、鉱物が
産していて、それはどういう効用があって、
どこが特産地で、それぞれの土地で
どういう名前で呼ばれているか、
オランダ語では何というか。
それから中国語、漢語では何と呼ばれていたか。
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糸井 |
そうするともう、殖産の上をいってるわけですね。
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芳賀 |
ま、そうですね、やっぱり学問はね。
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糸井 |
役に立たなくてもいいとこまでいって。
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芳賀 |
そう。あの時代は、
殖産興業の運動にうながされて、
それを物産学、博物学に展開させていき、
やがて学問として実用功利を離れて、
学問を博物学として純粋化させようとした、
ちょうどその境目に立ったのが、
源内だったんだと思いますね。
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糸井 |
つまり、ちょうど時代的に、
紙はひじょうに貴重だし
本は貴重だって時代なのに、
洒落本だの枕絵だのっていうのが
いっぱい出てきたみたいな流れに、
ひじょうに、リンクしますね。
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芳賀 |
ああ、ああ、そこはどうかな?
ちょっとそこは、そうパラレルでいくかどうか。
紙が貴重なのに‥‥。
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糸井 |
あんなに無駄に見えるようなことに。はい。
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芳賀 |
うん、まあ、そうかもしれません。
そういうものを認める余裕が
できてきたわけですから。
それから殖産興業で、源内たちも、
自分の先生の田村元雄(げんゆう)などと一緒に、
人参(朝鮮人参)を国産化しようとします。
朝鮮半島から輸入するのはおそろしく高いから
ぜひ国産化しようと。
人参博士の田村元雄のところに、
宝暦6年、1756年に江戸に出てきた源内が
入門するわけです。
で、一緒になって、人参研究をやる。
人参をどこで作ったらいいか、っていうので、
日光で実験したりして。
ちゃんと彼は記録に残しておりますけども、
とうとう国産の人参を作って、
それが効用があることまで確かめています。
何年後かに、その、幕府が、
国産人参が朝鮮原産の人参と、
そう変わらぬ効用を持つっていうことを、
ちゃんと公認のものとするわけですね。
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【朝鮮人参植付覚書:中島利兵衛】中島秀亀氏蔵
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糸井 |
はぁ! それ、源内としては、
一研究者としてやったことなんでしょうか、
それとも、もうちょっと商業的な意味が
背景にあったんでしょうか。
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芳賀 |
人参に関する場合は、かなり研究者ですよ。
人参はだいたい、ぜんぶ幕府が
直轄で統括しておりましたから。
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糸井 |
そういうものなんですか。
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芳賀 |
自分の畑で作っちゃいけないわけで。
ぜんぶ幕府直営の畑で、
いわばハウスのようなものを作って、
そこで栽培してうまくいったら、
さらに幕府直営の、小石川薬草園で植えて。
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糸井 |
特別なものなんだ‥‥。
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芳賀 |
それで、もっと広く民衆に、
人参という特効薬が普及するように
図ったわけです。
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糸井 |
国立研究所みたいなもんですね。
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芳賀 |
そうですね、国立衛生研究所。
それで厚生労働省みたいなこともやってたわけですね。
で、あのころ、植物園も盛んですよ。
山本周五郎の「赤ひげ診療譚」なんていうのは、
小石川が舞台ですよね。
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糸井 |
そうですね。そういう舞台ですよね。
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芳賀 |
そういう動きが盛んになってきて、
源内はその中のひとりでした。
人参がそうやって国産になれば
国益につなげるってことははっきり知っていて。
しかし、自分は、まず研究者として、
どうやったらほんとの朝鮮人参に匹敵するような、
ちょっと飲むとフーッと元気になるような、
そういう人参になるか、一生懸命やったんです。
田村元雄先生っていうのが、
源内が直接にいちばんよく学んだ本草学の中でも、
その人参のことに詳しい先生です。
やがて田村元雄先生のところから独立して、
源内は本草学者から物産学者、博物学者へと
なっていったんです。
そのきっかけがさっき言った、
宝暦12年、1762年の物産会。
それが大成功して。その成果を収めて、
その翌年に、『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)
という博物図譜を作るわけですね。
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【物類品隲:平賀源内】江戸東京博物館蔵
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糸井 |
図譜にして、自分の仕事を残すんですね。
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芳賀 |
そうですね。でも源内の志は、
『物類品隲』だけでは
まだまだ足りないのであって、
これを日本国中の植物、動物、鉱物の、
全てを網羅した体系を作り、
それぞれに図譜をつけた、
そういう日本総合博物図譜を作りたいと
思っていたようです。
それが源内の志でした。
だから、牧野富太郎になりたかったわけですね。
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糸井 |
はっはぁー。
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芳賀 |
ところが、そのためにはお金がいる。
幕府、田沼意次がいくらついても、
ある程度は援助してくれるけれども、
そんなことまでいちいち全部、
手助けはしてくれない。
それから元雄先生も、もう限界になる。
それから杉田玄白なんかが親友で、
いつもそばにいるけれども、
玄白もお金はない。
自分でお金を稼がなければいけない。
そのために戯作を書く。
それから、浄瑠璃本を書く。
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糸井 |
あ、そういう順番なんですか。
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芳賀 |
そういう順番なんです。
それから、金唐革(きんからかわ)っていう、
お財布とか煙草を入れるものを、
さらに金唐革紙といって、
紙で作って売ってみたり、
源内櫛と呼ばれた、模様の入った、
銀の上に模様をつけた櫛を売りだしたり。
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糸井 |
それはつまり資金作りだったんですね。
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芳賀 |
わたくしはそう解釈しています。
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糸井 |
芳賀先生説。
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芳賀 |
でも、そのうちに源内は、
そっちのほうが面白くなったんじゃないかなぁ?
だんだん糸井さんに似てきて。
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糸井 |
はぁ〜、なるほどね(笑)。
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芳賀 |
それで、本筋を忘れちゃったんじゃないのかな。
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