小川 |
自分が法隆寺を見て思うのは、例えば、
「宮大工の技術というのは韓国の方から
4人の大工さんが来て、それがはじまりだ」
と言われたりするんですけど、
「それだけじゃない」ということです。
確かに、瓦をつくる技術とか何かは
大陸から学んだものがあったですけれども、
法隆寺なんかを見ると、向こうから来た技術を
そのままうのみにしてつくっているわけではない。
中国あたりの建物を見ると、
雨が少ないせいか、軒がものすごく短い。
軒がちょっと出ている塔なんかがありますよね。
でも、日本の建物は、
やっぱりものすごく屋根が出てるでしょ。
雨が多いから、湿気のために基壇を高くして、
そんで、その上に軒を深い建物に建てています。
そういうのは、大陸にはないんです。
ですからきっと、日本には、
気候風土に合った建物を建てられる人、
しかも木工の技術にたけた人がいたわけです。
それと向こうの技術を学んだんだけども、
そのときに向こうの技術をそのまま
うのみにするのでなくて、ちゃんとそこで消化して
日本の建物につくりかえているんですよね。
ですから、自分は、大陸の技術を、
「つくりかえている」んだと思うんですよ。
そのまま輸入したわけじゃなくて。
でなかったら、あんなに一気にできませんからね。
ですから、日本人は猿まねが
どうのこうのなんていうけど、そんなことないです。 |
糸井 |
猿まねというよりは、
「技術を育てた」ということですね。 |
小川 |
そうですわ。向こうの技術を学んだ上で、
日本の独特のものをつくったということです。
だからすごいんです。 |
糸井 |
さっき、小川さんがおっしゃっていた、
「できると思う」という心が最初にあったから
建物ができたんだという話って、きっと
当たり前のことを言っているのでしょうが、
法隆寺を見て驚かされた源が、
その言葉で、急にわかったような気がしました。
ピラミッドは石の建築ですけれども、
ぼくはあれの前に立った時に
ものすごいショックを受けたんです。
それまで、ピラミッドというと、てっきり
かわいそうな奴隷たちが作ったみたいな
印象があったんです。そういう資料しか、
情報として、与えられてこなかったものですから。
でも、現場に立ってみたら、
「そんなはずはない!」
「渋々作ってできるもんじゃない!」
一瞬でわかりましたもの。 |
小川 |
そうでしょうな。 |
糸井 |
ああいうものって、
イヤイヤじゃ、できないですよね。 |
小川 |
できないですよ。
「最後まで」はできない。
奈良の都も、一緒ですよ。 |
糸井 |
見苦しいものは、奴隷を使って
イヤイヤ作らせたってできると思うんです。
だけど、美しいものって、本気でみんなが
チカラをあわせないと、できないと思う。
それを思って、ピラミッドの前で、
ぼくは涙が出たんですよ。
小川さんの話を聞いてみると、
そういう気持ちで、また法隆寺を見たくなる。 |
小川 |
やっぱし、イヤイヤやれば、手抜きをしますよ。
そういうことがないから、持っているんでしょうな。
法隆寺で言えば、山から切り出して
運ぶというのだえけでも大変なことですよね。 |
糸井 |
それをつくっていた人の姿を考えると
ゾーッとするし、美しいですね。
よっぽどつくりたかったでしょう。 |
小川 |
そうだろうなあ。
自分でもこういう仕事をやっているから
よくわかるんだけれども、最初は
たとえば権力とか何かいろんなことで
涙を流してつくるかもしんないですけども、
それが形になってくる、でき上がる……。
そうしたら、その時には、みんな忘れて
もう、うれしいことしか残ってないんです。
それが、ものを作るという人、ですよね。
途中はやっぱり苦しいかもしんないですけど。 |
糸井 |
それが、ひとりじゃできない、
というところがまた……すばらしい。 |
小川 |
そうですね。 |
糸井 |
想像すると、いろんな物語があったでしょうね。 |
小川 |
そうですね。
ですから、わがままでは
この建築はできませんよね。
たとえば、陶芸家は、
自分で気に食わなければ出さなければいいですよ。 |
糸井 |
割ってしまえばいいんですよね。 |
小川 |
ええ。
しかし、建築の場合、仕事を受けた以上は、
悪くてもよくてもつくり上げなくちゃだめだ。
だから、そういうわがままはできない。
ほんで、ひとりではできない。
みんなの力を借りなくちゃできないわけです。 |
糸井 |
同じ木組みで100段も200段もつくる、
なんていう時、1人で100つくるわけはないわけで、
「俺がぜんぶやる方がいいのに」と思っている人でも、
きっと、まわりに合わせて、そろえるわけでしょう? |
小川 |
はい。 |
糸井 |
そういうときには、
小さな戦いが山ほどありますよね、きっと。 |
小川 |
そりゃそうでしょうな。 |
糸井 |
もともと意地っ張りですよね、
それだけのものをやる人は。 |
小川 |
それに、昔であれば、今のように
規格というか、寸法がぴたっと合ってないですよ。
みんなばらばらですよ。
裁断するのこぎりがないんですし、
木を割って使うんですから。
「木を割る」ということは、
木の性なりにしか割れないんですよ。
自分でいくら、
「こういうふうに割ろう」と思ったって、
その木の生まれた性にしか割れない。
それを適材適所の場所に持っていって
組み上げるんです。 |
糸井 |
のこぎりが、ないんですね。 |
小川 |
うん。ですから、今の建築のように
規格化されたものを組み上げるなんていうのは、
ひとりだけがいればできるような、
とても楽なことなんですよ。難しいことではない。
しかし、昔のものは、全部規格化されていない。
みんなふぞろいです、ばらばらです。
それを組み上げるということは、もう全員が
棟梁のような考えを持たなくちゃできないです。
ふぞろいでも、そのままやっていったら、
傾いたり何かしますけども、
それはある程度のところへ行くと
軌道修正をちゃんとして、またそこから建てはじめる。
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