一生を、木と過ごす。
宮大工・小川三夫さんの「人論・仕事論」。
「これでも教育の話」より。

第7回 精一杯やったことはわかる



木のいのち木のこころ 地
小川三夫
新潮OH!文庫
文庫: 215 p
出版社: 新潮社
ISBN: 4102900934

糸井 法隆寺のころというのは、
木を規格化することができなかったわけで、
材料になる木をよく見ることで、
設計も変わってくるのですね。
小川 ええ。

つまり、木が均質だったら、
最初から設計図を描けるけど、
材料のネタによって料理を変えなきゃいけないから、
設計図というのは完成図としては
つくれないわけですね。
小川 設計図、ないんですよ。
日本の中での設計図というものは、
今から500年ぐらい前にちょっと残ってるぐらいで、
あとは、ないんです。
なくてあれだけのものをつくった。
ですから、どういうふうにして……
糸井 どういうふうにつくったんですか?
小川 それは今でもわからないんです。
しかし、あれだけすばらしいものはできてる。
まあ、10分の1の模型をつくる、
なんていうことはしたんだろうというふうな
そういう跡は残っているんですけれども、
そればっかしじゃ、できないですね。

例えば、師匠の西岡棟梁は、俺に、
「法隆寺の塔は安定していて動きがあるだろう」
と言ったんですよ。
糸井 すごい言い方だなあ。
小川 「安定」というのはわかるんですよ。
逓減率、上が細くなる、木柄が太い。
そういうことだな。

でも、そう言われた時の俺には、
「動きがあるだろう」ということは
まったくわからなかったんですよね。
わからなかったけど……
それから3カ月ぐらいたってから、
「松の枝を見てみい」と師匠に言われた。
それで、わかったんですよ。

法隆寺の軒の反りというのは、
鳥が羽ばたくようにこうなってる。
錯覚を利用したつくりになってるんだ。
師匠はそれを、「動き」だと言った。
古代の人は、松の枝が一番下が張るのを見て
こうするのを考えたのかしらないけど、
いつも、よく見るとちょっと工夫してるんだ。
少なくとも、師匠はそれに気づいてた。
糸井 1,000年以上たって西岡棟梁とか小川さんとかが、
「昔の人は、そうしたのか」
とわかったというつながりは、
何かうれしいでしょうね。
みんな死んじゃってる人との会話ですけど。
小川 うんうん、そらぁそうだわ。
糸井 大工にとっては、
「だれか気づくかなあ」みたいなことですよね。
小川 そうよ。
作った自分たちの苦労を……。
糸井 ねえ?
子供が気づく、孫が気づくじゃなくて、
見たこともない誰か、同じ仕事をしている誰かが
どこかで、その気持ちに気づく。

会ったこともないし、永遠に会わない人が、
そうやったのかあという話は、打たれるなぁ。
小川 だから、自分たちも、
ほんまにそれを見れば頭が下がりますよ。
考え方がよくぞそこまで行ってるなぁと。
今の人じゃ、とてもそんな考えをしないでしょ。
それは寸法にとらわれてしまうから。

生きていることでも何でも
寸法にとらわれていると、
気づかなくなることが出てくるのでしょうな。

自分たちは、
ものをつくるという立場にありますよね。
こういう仕事をしてますから。
そうすると、例えば、西岡棟梁がいます。
そのあと、自分がいる。
自分は棟梁の仕事を習いまして、
弟子にはその仕事を教えていくというわけです。
それを伝統とかなんとかという人いますけども、
でも、伝統でも何でもないんです、そんなのは。
引き継ぎでも、何でもない。

西岡棟梁と自分の間にも、
伝統を引き継いだなんて感覚はない。

ただ、西岡棟梁と自分との間では、
薬師寺の塔をつくったり、
法輪寺の塔をつくったり……。
そして、いま、自分と弟子の間でも
いろんなものをつくっていますよ。
ですから、つくっていること、
そのものが残るという、それだけはあるよな。

「技術を残す」ってことじゃなくて、
建物を残せば、おのずから何かは伝わりますわ。
それを伝統と呼ぶんなら、呼んでもいいけれども、
決まりきった教科書どおりのことを伝えることとは、
ぜんぜん、違う話なんだ。
糸井 すごくよくわかります。
小川 たとえば、弟子によく言うのは、
「うそ偽りがない、自分が思えることを
 精いっぱいやっておくんだよ」ということです。

毎日毎日の仕事を精一杯やっておくというか。
「精一杯やっておく」
ということは、未熟であってもいいんですよ。
未熟であろうが何だろうが、
そのときの自分はごまかしようがないんですから。

でも、未熟ではあっても、うそ偽りのないもの、
一生懸命やってやってやって、
やりきっててつくったものは、やっぱし
何百年か後にこの建物を誰かが解体修理した時、
「へぇ。平成の大工さんは
 こういう考えをしてあるんだな」
と、それを読み取ってくれる人がいるんですよ。

ですから、読み取ってくれる人がいると思うから、
精一杯のものをつくっておかなくちゃならない。
うそ偽りがあるかどうかは、
そこにある建物の中に、あらわれるんですから。
糸井 うそ偽りも、読み取られるということですよね?
小川 うん。
うそ偽りだって読み取られるわけだから、
そういうことのないように
キチッとしてやっておかなくちゃならない。

ですから、それは何で思ったかというと、
法隆寺の大修理。

法隆寺、1,300年前に建ったものを、
西岡棟梁をはじめ、
現場の人たちが大修理したわけですよ。

法隆寺の時代に、こういう形を
誰がどうやってつくったかということは
何にも残っていないですよね。
ぜんぜん残っていない。書物もない。

しかし、その建物が実際にあって、
それを解体したときに、西岡棟梁初め現場の人は、
1,300年前の工人と話ができたから、
昭和の時代に復元できたわけです。

そういうことを見てきたから、
建物をつくりたいんなら、
絶対にうそ偽りのないものを
残しておかなくちゃいけないと思った。
糸井 力がなくても精一杯、なんだ?
小川 うん。
精一杯やっておれば……。
それは、結果はしゃあないですわな。
「もっといい考えがあったな」といっても、
それに気づいてないんですから。

しかし、何もかも
そのままが残るということですよ。
知識がなくても精一杯だったかどうかも、
ぜんぶ残る。それは後で見てもわかる。
糸井 それ、ほんとにジーンとしますね。
小川 建物を解体してみると。
当時につくった人らの顔を見ながら、
今、仕事をやってるようなもんです。

(つづく)

2002-09-30-MON

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