糸井 |
人の話を伝えることに関して
ぼくがよく思うのは、
「カギカッコの中は触っちゃいけない」
ということなんです。
野球の選手がよく言うんですけど、
今だと、例が思い浮かばないんですが、
ちょっと昔に水野というピッチャーが
巨人に、いたんですね。
その人は「阿波の金太郎」と
呼ばれていた人で、四国の田舎の子なんです。
そうすると、新聞記者の取材に対して、
どんなに丁寧に答えても、翌日の紙面では、
「ワシは‥‥」って言葉で報じられるんです。
水野さん本人に会うと、
「俺は、『ワシ』なんて言ってない!」
と言うんです。
広島の選手だと「じゃけえ」だとか‥‥
言ってないセリフまわしを、
スポーツ記者が、勝手に入れるわけですよね。
つまり、読みたい人に合わせている。
清原だって「ワシ」って言ってないんです。
だいたい、「ぼく」って言っているんですよ。
ぼくは、人のイメージに
勝手に合わされちゃう、ということに関しては
「カギカッコをとればいいんだけど、
カギカッコの中のセリフをいじることは、
本当は、いけないよなぁ」
って言っているんですけど。 |
米原 |
ただ、通訳の場合には、もとの言語が
他の人にはわかんないじゃないですか。
一人称についていえば、日本語は
「私」とか「あたし」とか「あたい」とか
「わし」とか「おれ」とか「僕」とか、
大量にあるけれども、英語だとかは、
一人称単数は基本的に1つですよね。
複数も1つですし。
そうすると、それをどう訳すかは
翻訳次第なんですよ。その選択は難しいです。 |
糸井 |
その人の価値体系みたいなものを、
ある程度、把握しない限りは、できないですね。 |
米原 |
できないですね。
でも、通訳がつく場合は
だいたいが、公の席ですから、
だから、普通は「わたし」ですね。
いきなり「ぼく」なんて言ったら変でしょう? |
糸井 |
じゃあ、ポピュラリティーのある
ロックスターだとか
野球の選手だとかのときは困りますね。 |
米原 |
そうですね。
それで、通訳の場合、
記者のような「カギカッコ」って、ないんですよ。
つまり、透明人間にならなくちゃいけないから、
「存在しないこと」になるんです。 |
糸井 |
「地の文」がないわけですね。 |
米原 |
そう、地の文がない。
「彼はこういっている」
と言っちゃいけないのが、翻訳なんです。
「彼」はなくて、そのまますぐ「私は」になる。 |
糸井 |
嫌な役割だなぁ。
例えば僕が若げの至り通訳ができたとしたら、
さっきの「プアカントリー」みたいなときには、
いったん「プアカントリー」を言っちゃってから、
「そういっていますけど、
これはちょっと誤解されますね」
って、入れたくなりますねえ。 |
米原 |
入れたくなるのね。 |
糸井 |
やっぱり自分をどれだけ殺せるか、ですね。 |
米原 |
そうですね。最初つらかったんですよ。 |
糸井 |
つらいでしょうね。 |
米原 |
つらい。
同じ人の通訳を1週間ぐらいやっていると、
その人を絞め殺したくなります。
どんなにそれ以前は尊敬していたとしても。
つまり、自分の考えと、かなり違うわけです。
自分とは違う人間にならなければいけない‥‥。
言葉って、結局、自分自身に
ものすごくかかわっているところなんです。
自分の感情とか考えとか、
それを他人に伝えるために
自分自身がモノを考えたりするときにも
言葉を使っているから、
これを完全に他人のために使うということは‥‥。 |
糸井 |
大変なことですよね。 |
米原 |
苦しいんですね。 |
糸井 |
自分の物差しみたいなものは
何cm何mmでできているという、
手のサイズみたいなものがありますよね。
そのサイズでふだんブロックを組み上げたり、
つなげたりしているのに、
急に1尺、2尺ではかっている人の話を
しなきゃならないわけですね。 |
米原 |
そうです。
価値観とか美意識も
ぜんぶ違いますから、それをなるべく
正確に的確にずうっと表現し続ける、
というのはつらくて‥‥。 |
糸井 |
聞いているだけでイヤですもの。 |
米原 |
イヤです。
通訳をやっている人は
みんなその時期を経過するみたいですね。
ある時期から、何かふっと離れられる。
遊体離脱みたいな感じで。 |
糸井 |
今、何を思い出したかというと、
歌舞伎を思い出したんですよ。
歌舞伎の片岡仁右衛門さんに、ゲストとして
お話を聞いたことがあるんですけど、その時、
「歌舞伎というのは型で覚えるものですから」
というお話があって、本当に明るいスタジオの中で、
長いスツールでしゃべっていたんですけど、
そのときに
「例えばお墓参りをしているときに、
合掌してお参りをしますね‥‥?」
というポーズをとったんですね。
見事に、お参りをしているんですよ。
で、その姿に、圧倒されたんです。
そんなにものすごいものを、
気持ちじゃなくて、型で覚えると言われた。
その後、今度は玉三郎さんとお話をして、
玉三郎さんは西洋演劇もなさるし、
歌舞伎もなさる。
そのときに、西洋演劇をやる時に、
どうしても型でやりたくなるんで、
揺れるんですって。
で、2つを使い分けているんですって。
型で覚えちゃったものというのは、
自分の心とは全く関係なく、
型から型へ移動していくのであって、
そこのところで、例えば
三島さんの戯曲とかをやりますよね。
その時には、本当に
最初はやりづらかったと‥‥。
玉三郎さんとかは、どうも、自分の中に
2つの人がいるらしいんですけど。 |
米原 |
私は3人いますね。 |
糸井 |
それはどんな3人? |
米原 |
つまり、聞くときは、
自分ではなくて、まずは、
聞き手の立場に立って、聞くんですよ。
つまり、
伝えるときに聞き手にわかるように
伝えなくちゃいけないから、
聞き手の立場に立って聞く。
だけど、それを聞き手に話す時には、
話し手の立場に立って話す、
ということをやります。
「わたしは、こう思います」と言う。
その2つから、ちょっと浮いた感じで
神様みたいに両方見ている者もいる、という。
その方がやりやすいです。 |