言葉の戦争と平和。 米原万里さんとの時間。 (「これでも教育の話」より) |
7 イタコになること
□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□ 昨日の更新直後に、読者の「あ」さんから、 次のようなメールでの感想を、いただきました。 「毎回、興味深く読ませていただいています。 レベルは違うけれど、私は毎日が 自分との通訳みたいな所があります。 住んでいる場所が場所(カナダ・モントリオール)なので 仕方ないのですが、今日は特に大変共感を覚えました。 米原さん糸井さんが、 『通訳をしている時には、自分の考えと 違うモノサシで話さなければならないからつらい』 とおっしゃっていたこと、そのとおりだなぁと思います。 私は英語や仏語で話している時、そう感じます。 自分の伝えたい言葉の 意味の細部まで伝えられていないと、 もどかしいどころか、ストレスさえ感じます。 特に議論めいた会話になってくると、尚更です。 英語や仏語が完璧でない、という問題もありますが、 日本語の私の言いたいことに一番近いだろう、 と思って喋っているので、完全に 頭の中のニュアンスと一致している訳ではないのです。 自分が言いたいことを 言えている、という実感が得難いのです。 まさに、自分の思いや感情は 『尺』なのに、表現は『cm』でしかない、 といった感じで、いつもいつもこんな気分です。 だから日本語で時々話さないと、 おかしくなりそうになります。 でもこれまた笑っちゃいますが、 日本語で話せたからといって、満足でもないんですよね。 今度は価値観とかそういうものが、表面に出てくるから」 相手の言葉を使って話すという、 本来、アイデンティティとしてはつらいはずのことが 職業になっているのが、通訳なわけなんですよね。 今日は、昨日の話のつづきで、 「更に、相手になりきってしまうということ」 について、対談が、進んでゆきます。ではどうぞ!! □■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□■■□
(※明日につづきます。おたのしみに!!!) |
2002-11-07-THU
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