おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
「私も表現したい」 日記はつけていません。 本当は育児日記や家計簿日記をつけると 文を書く習慣ができるのでしょうが、 自分のために自分しか見ないものを書くのは恥ずかしい。 もう小さくなった靴を引っ張り出して 履こうとしているみたいです。 絵でも文でもいい、何か発信したい。 夫には、相当の変わり者でなければ 芸術家にはなれないと思うよといわれます。 たしかに才能も研鑚もないし、 発想も保守的なのかもしれない。 でも、自分を知ってほしい。 ただ生活を繰り返すだけでなく、 こぼれるものを受けて確かなものにしたい。 ----読者の佐藤さんから「小論文教室」に発信されたメール Lesson 9 クラスメイトの「発信」を読む 教室のみなさん、なじみの方も、はじめての方も、 こんにちは、ズーニ−です。 今日は、仲間の発信を読むレッスンを したいと思います。 テーマは「自分を表現する」について。 前回のレッスンに対するクラスメイトの発信ですが、 前回読んでない人も、いきなり読めると思います。 (興味がわいたら→「自分を表現する」の回へ) 自分を表現するとは? だれに? 何を? 前回にない、よい問題提起を含んでいますし、 自分にとって切実なことを書く 小論文の原石のような文章です。 何より、これらのメール自体が、 「自分を表現する」、 最初のステップへ漕ぎ出していることにご注目ください。 そして、漕ぎ出した先は? クラスメイトの発信は、 どのくらいあなたに伝わるのでしょうか。 クラスメイトの発信に、何か感じる自分がいたら、 個人の発信が 人の心というフィルタを通して ささやかでも世界と交信する事実を 体感したということです。 あなたも、感じ、考えたことを自由に発信してみてください。 では、じっくりとお読みください。 (文章は抜粋です。省略・改変した個所があります。) ●「自分に自分を表現する」鈴木ハナさん 何かの本で「自分との関係も人間関係だ」とあり、 私は自分に自分を表現していないことに気づきました。 ある種の感情がわきおこったとき、 瞬間的にそれを押さえ込んでしまうために、 そのとき自分でも何を感じたか わからなくなってしまうのです。 ある種の感情とは、怒り、恐れ。 誰かに怒りを覚えたとき、恐れを抱いたとき、 自分自身に対して何事もなかったかのように、 平気なふりをしてしまうのです。 人に表現する以前の問題です。 自分自身が抱く感情への恐れ。 自分の本質を疑い、信じられず、 好きになれないことからくる恐れ。 自分に都合の悪い自分の一面を 見ないようにしてきた習慣による 心の反射的な動きです。 この根本には「人から嫌われたくない」 という思いがあります。 感情はすばやく自分に何かを伝えてきます。 きっとこの感情というものが、 「表現の素」なのでしょう。 自分に対して感情を押さえ込んでいたら、 表現したいものが何かすら、わからないままです。 そんな自分を見つめる作業を ここのところずっとしています。 苦しさを苦しさのまま受け止め、 怒りは怒りのまま受け止め、 今の自分の様々な側面を 見届けてみようと意識しています。 人間は多様な面を持ちあわせた存在なんだと、 実感として受け入れつつあるところです。 そうするうちに不思議なことですが、 色に対して敏感になりました。 色が持つ楽しさ、 色の組み合わせの面白さといった世界が どういうわけか開けてきたのです。 今まで着なかったような色の服を選んだり、 スカーフを巻いたり、サングラスを買ったり…。 自分の感情と色がリンクしているかのように、 少しだけ自分の感情が自由になった気がしています。 ●「表現することは自分を知ること」幸栄さん 私が思うもっとも身近な自己表現は、 家族に対して発生してくるのではないか、と思います。 日本人の場合、特に家族に関しては 「言わなくてもわかる」 という気持ちが大きくて、 改まって自分を表現するということはないかもしれない。 言わなくても態度でわからせるのは それもまた一つの表現方法かもしれませんが、 やはり発言しなくては相手にわかってもらえない、 と私が痛感したのは、結婚してからです。 実は私の相手はオーストラリア人(いわゆる外人) なのですが、初めの頃は言葉の壁もあって、 「どうやって相手に自分をわかってもらうか」 と言うことに大変苦労しました。 それはけんかの時に最も顕著に現れるのですが、 自分の言いたいことが相手に伝わらないと とても欲求不満になります。 日本語でも「自分を表現する」のは難しいのに、 ましてや第二外国語で表現するのは至難の技。 最後は日本語でどなる(これが意外と効果がある) のが私の表現方法ですが。 私、「自分を知ること」に 長年興味を抱いていたのですが、 「自己表現する」ことが そこにつながっていくのかもしれませんね。 ●「そういうものなのか、伝えるって?」シーガル ぼくは以前つきあっていた彼女に こんなことを 言われたことがあります。 「わたしは○○クンに 今日あったこととかいろんなことを 伝えたいって おもうの。 でも ○○クンは そういうのあんまりないじゃない? だから この人は 何も見てないのかなって 思っちゃうの。」 ちがうんだ。 おれだって いつも ちょっとしたことをすぐ 電話のメールに入れたりするじゃん。 君に言おうと思ったことは いつも言ってるじゃん。 おっ、これはって思うことは 言ってるじゃん。 そういうことを 伝えたいとも思うし。 実際伝えてるし。 "実際伝えてるし。" "伝えてるし..." あっ えっ ちょっ ちょっとまてよ! ほんとに伝わっていたのか!? あんな陳腐な表現で ほんとに伝わっていたのか? ただ伝わってると自分で思ってただけじゃないのか!? ただの自己満足だったんじゃないか? それに気づいたのは その子と別れたずっと後のことでした。 ぼくはそれ以来 『表現する』 ということをずっと考えてきました。 狂うとは 自由に表現することを 抑えられてしまった結果 起こること。 生きとし生けるものは みんな 自分の内部を 外に向かって 解き放とうとしているんだ。 そんなことを考えているうちに 思い出しました。 あの子がいつだったか言ってたこと。 「なんか 自分が言おうとしていることがさぁ 相手に伝わるとうれしいよねぇ...」 なんで 今ごろ思い出すんだろ。 いままで ぼくはそのうれしさを みすみす逃してきた。 伝えるということに対しての 努力を怠っていた。 ほんと愚かでした。 そして よしっ 今日あったこととかを なんでもいいから 誰かに伝えてみよう。 という考えに至りました。 でも ちょっとまてよ。 そういうものなのか?伝えるって? ぼくは ぼくに問いました。 そして 今、ぼくが表現について思うこと。 " ぼくはぼくのやり方で表現する。 表現したいと心のそこから思うことを 表現する。 そして、伝える努力をする。 本気で表現したいことを 本気で伝えようとすることが 大事じゃないのかな。 なんでもかんでも今日あったことを しゃべるとか どうでもいいことを人に伝えようとするとか そういうんじゃないんだよ。 伝えたいと感じたことを 伝えればいいんだよ。" って。 ●「相手にとっては、一方的な内容だったかも」ミヤコさん わたしは、格闘技を見るのが大好きです。 最近、ある格闘家が入院中ということを ネット上で知り、お見舞いの手紙を書いたところ、 メールで返事を頂き、その後1度 メールのやりとりをしました。 わたしは、自分と全く別の世界にいる人と、 こうしてメールで直接やりとりができたことが すごくうれしくて、自分の中では、 すっかりお友達気分になっていました。 でも、返事って、結構そっけないなぁ、 冷たい人なのかなぁとも思ったりして。ところが、 『私は「あなた」を知っている、 あなたは「私」を知らない。』 これだったんですよね。きっと。 相手にとっては、一方的な内容のメールを 送ってしまったかもしれないなぁ、と 少し反省しています。 人と交わっていく上で、 自分を相手に知ってもらう努力をすることは すっごく大事なことなんですよね。 もう、四半世紀生きてきましたが、これからもずーっと、 訓練ですね。自分を表現することの。 せっかく、メールのやりとりができたのだから、 今度は、わたしを表現してみようかな。 そしたら、必殺技のひとつでも、 こっそり教えてもらえるかも。 ●「無意識に正解を探す自分」西出さん 僕は上場しているメーカーの 子会社に勤務しておりまして、 事業企画・開発を担当しているのですが、 実際、何か次の事業を立ち上げないと、 リストラされてしまう、といった状況で、 日々、メンバーと苦闘しておりますが (これがいい刺激で楽しいのですが)、 その活動を通して実感するのが、 「どこかに正解がある」という思考パターンに 支配されている人たちがいかに多いかということです。 僕の仕事のように、 道のないところに道を作ってゆく上では、 このような思考パターンの人間が多いということは、 大きな問題だと感じております。 こう言う僕自身も同様の問題を持っていると思います. たとえば、事業のアイデアを得るために、新聞を読む。 その結果、 最近のIT化の流れをはじめとした 市場環境のトレンド、 そして、成功している企業の情報は、 TVのキャスター同様に よく語ることができるようになる。 で、自分の環境でその流れをどのように取り入れ、 事業を作ってゆくのか? 新聞をいくら読んでも、そんな答えは載っていない。 どうするべぇ!といった苦悶をよく感じる次第です。 新聞をはじめとしたメディアには、 答えはないのはわかっているのに、潜在意識の中では、 自分にぴったりの「正解!」を求めている。 ●発信と「責任」 一色さん 私は「そもそも人はなぜ何かを表現したい、 発信したいと思うのか?」ということに とても興味があります。 具体的に言うと、私の頭にあるのは インターネットの日記のことです。 星の数ほどの「ごく普通の人達」が、 日記をつけています。 かく言う私もつけています。 ある日ふと思いついて始め、かれこれ1年になりますが、 結局のところなんで続けているのか、 ぴしっと結論が出ないのです。 一つ発見だったのは、 「責任」ということを考えたことです。 実際に始めるまでは、 「責任」なんてことは考えてもみませんでした。 「嫌になったらすぐやめればいいや」と思っていたし、 掲示板やメールで読み手とやりとりをして、 具体的になにか求められているわけでもないのに、 ただのカウンターの数字とかに 責任を感じてしまうのです。 私が書いたものでも、誰かが読んでくれた時点で 私だけのものでなくなって、 他人がちょっと混ざってくるのかもしれません。 ともかく、莫大な数の、個人日記たち。 みんななぜ書き続けるのか? なんか「誰かに話したい!」という 気持ちになってメールしました。 ●今日のおさらい● 再びズーニ−です。 クラスメイトの言葉は どれくらい、あなたに届きましたか? また、自分を表現したい切実な対象は誰か? 発信による責任についてどう思うか? 個人日記をみんななぜ書きつづけるのか? など、登場した新たな問題について、 どのように考えますか? 最後にもう一つおたよりを紹介しておきます。 では、また来週。 ●ようこさんから それで食べていけるようになるならないは別として、 私は、書きたいとか感じたいという気持ちだけで 生きているようなものなので、それに対してだけは まっすぐに生きていたいな、と思います。 表現したい気持ちがあるのに、 それがうまくいかない場合は、 人の意見を聞いたり、 努力したりするしかないと思います。 表現したいという気持ちは 生きたいという気持ちによく似ています。 |
2000-07-26-WED
戻る |