YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson22 受験を科学する

ものごとを、自分に都合よく見ないで、客観的にみる。
すると、とらわれていたものがとれて楽になる。
あなたも科学的な思考をトレーニングしませんか?
ということで始まった、
うら若き女性科学者をお招きしての特別講義、第2弾です。

さっそく春野蝶々先生、お願いしまーす。

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こんにちは、春野蝶々です。

すっかり秋も深まりました。
昼も夜もなくDNAばかりいじっている
わが研究室にも、季節は訪れます。
窓を開けると、ふいに訪れるキンモクセイの香り。
試験管を洗う水も、ずいぶん冷たくなりました。

さて「考える道具」としての科学、
今回は『受験』です。
アルバイトで講師をしている予備校で、
生徒の吉田君がこんな話をしに来ました。

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この前の模試の結果が返ってきたんだけどさ、
サイアクなんだよ、先生。
最初の志望校も無理っぽいし。
なんか俺、将来どうなっちゃうんだろう。
不安でしょうがないんです。
どうしたらいいかな?

頭いいヤツはいいよなァ。
受験戦争って、ほんと意味ないですよね。

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浪人生の吉田君、気候とともに、
心まで寒くなってしまったみたい。
でも、春野蝶々のアタマは、一年じゅう春。
「受験」って
もっと楽に考えられるような気がするのです。

さて、つらさの源はどこなんでしょう。
まず、悩める吉田君との会話を、
少しばかり思い出してみました。


◎「悩んでる暇」について

『頭いいヤツはいいよなァ』と
吉田君はしみじみつぶやきました。

どうして?と聞いたら、こんなことを言いました。
『俺、そんなに要領よくないし』
『悩みなんかなさそうだもんな、賢いヤツは』

なんで君には悩んでる暇があるの?と聞いたら、
イヤミ言うなよって、私、にらまれてしまいました。
『悩んでる暇に勉強しろって言うんでしょ。
 それができないから、困ってるんですよ』

え?どうしてできないのでしょう。
だって、やることは決まってる。
できないことをできるように、
わからないことをわかるように、
勉強するだけのことでしょう?

そう聞いたら、
『そんなに簡単にはわりきれないんですよ』
と吉田君はため息をついたのです。
『この成績じゃいい大学に行けそうもないし、
 たいへんな思いして、
 受験なんかする意味、あるのかなあ。
 そう思ったら、勉強する気が起きなくて。
 悪循環なんですよね』

どうやら、吉田君は「受験する意味」を悩みながら
勉強していたようです。
それでは勉強に身が入るはずもない。

だって、吉田君は
「悩んでる暇」に逃げているのですから。
逃げて、成績が上がらなくて、
よけい苦しくなっている。
困ったものです。
いったい何から逃げているのでしょう。


◎「決める」こと、「引き受ける」こと

『頭いいヤツは、悩みもなくていいよなァ』
と言ったとき、苦しんでいるはずの吉田君は、
どこか満足そうな顔をしていました。

受験すると決める。
志望校を決める。
志望学部を決める。

何かを「決める」ことは、
そのほかの可能性を捨てることでもあります。
決めないで、悩んでいるうちは、
手の中に多くの可能性を握っていられます。

捨てることはつらいし、痛い。
吉田君が逃げたいのは、その痛みでしょう。
多くの可能性の残された状況は、
なんと言っても居心地がよいものです。

可能性を減らした「頭いいヤツ」に
優越感を感じることだってできるかもしれません。
「頭いいヤツ」の痛みを思いやることもなく。

でも、吉田君はやっぱりつらいのです。
なぜでしょう。
「受験生である」ことを、
すでに選んでいるにも関わらず、
そのことから目をそらし、
引き受けきれていないからです。
「受験戦争なんて意味ない」なんて、
自分の行動をおとしめたら、みじめになるだけなのに。

ほんとうに、自分の多くの可能性を
ゆっくり確かめたいのなら、
受験勉強などせず、悩むことに集中すればよいのです。
それは受験勉強よりたいへんかもしれません。

そのたいへんさを引き受けきれず、
受験することを引き受けたなら、
「受かってこそ受験生」なのですから、
合格するための勉強に集中すればよいのです。

単純なことです。
そして、それは、悩むより、ずっと楽な作業です。

受験では、自分のできないことの量を
正確にはかることができます。
できないことの量は、そのままやるべきことの量です。
努力はそのまま、「合格」という
わかりやすい結果として現れます。
こんな、公平かつ単純なことは、
受験以外にそうそうないでしょう。

あるかないかわからない可能性にすがるのは、
先が見えなくて不安でつらい。
それよりも、確実に自分の手で結果を出すことのほうが、
より心を楽にできるはず。

それはわかりきっているのに、
どうして吉田君も私たちも、
あるかないかわからない可能性に
すがりたくなるのでしょう。
自分で決めたことを、自分で引き受けることが
こんなにもむつかしいのでしょう。

もうひとり、ある受験生の話を紹介します。


◎妄想の城は楽か?

その受験生は、いつもこんなことを言っていました。
「俺はイチかバチかの勝負をしてやるんだ。
 どう転んだって、俺は俺だから」
彼は、実はいい大人です。
バラしちゃえば、私のもと恋人です。
受験したのは、とある資格試験。
しかし、彼はその試験の準備を
じゅうぶんにしませんでした。
結果は、失敗。
彼の心意気からすれば、
失敗したってすぐ、立ち直るはずでした。
自分の道を見つけられるはずでした。
でも、彼は落ち込みました。
いちばん身近だった私に当たり散らしました。
転んでしまって初めて、彼は彼でいられなくなったのです。

イチかバチかの勝負をするとき、
ほんとうに負けることの覚悟をしている人が、
どれだけいるでしょうか。
負けることを引き受けきる自信のある人は?

「もしかして受かったら」そう考えるとき、
その人の心の中では、
受かる可能性は100%になっているはずです。
「受かったらいいな」が「受かるはず」にすりかえられる。
「ダメでもともと」は、
「ダメかもしれない自分をわかっている」
という言い訳にしかすぎません。
「わかっているんだから、いいだろう」と。
そうしておいてやっぱり、受かる可能性に依存している。
ここちよいので、依存したくなるのです。

でも、依存できるだけの根拠のない可能性は、
いつでも罠に変わり得ます。
それは、妄想の城とすら呼べる、堅固な罠です。
妄想の城は、いつかこわれます。
こわれたとき、人はかならず傷つきます。
気づかないで傷つくとき・・・
その傷はもっともっと深いものになります。

わかっていても、頼りたくなる妄想の城。
それはどこから来るのでしょう。
いつ、できるのでしょう。
私は科学者です。科学の現場で考えてみます。

科学の最初のアイディア。
それはいろんな可能性をはらんだ夢です。
「自然のしくみは、どうなっているのだろう」
「こうなっていたらステキだ」

夢を一歩一歩確かめていくとき、危機が訪れます。
「どうなっているのだろう」
「こうあるのかもしれない」が
いつのまにか「こうあるべし」にすりかわるのです。
あるひとつの可能性を、
排除したくないと思ってしまう瞬間。
その根拠のない願望が、
妄想の城となって科学者を縛ります。
「こうあるべし」は自然の姿をゆがめます。

最初に描いた夢よりもっと美しい自然本来の姿を、
そのせいで見逃してしまうこともある。
妄想の城は、夢すら食いつくしてしまうのです。

自由な"夢"が、堅固な"妄想"に変わるとき。
それが科学の危機です。

同じことが、受験を初めとする
私たちの生活についても言えないでしょうか。
夢に向かって歩き出すとき、
しばしば根拠もなくふくれあがる、ある願望。
そして、
「今の自分は仮の姿。本来はこうあるべきではなかった」
なんて流れる恨み節。
その「本来の自分」の根拠は、何?

妄想の城がくずれたら、何も残りません。
そのときのむなしさと傷は、
想像するだけでおそろしくはありませんか?

たとえ少しは痛みを感じても、
ありのままの自分を引き受けて、
小さくても、確実な結果を出したら、
それを根拠に新しい夢を描けます。

すべり止め校だって、
あなたが手に入れた「合格」なんです。
そこから、どんな物語だってつむぎ出せるでしょう。

だから、吉田君。そして受験生のみなさん。
イチかバチかの勝負なんて、そんなたいへんなこと
たかが受験でしなくてもいいんじゃないかしら。

「合格」という結果を出すべき自分を、
きちんと引き受けること。そうして、
かならず成功するに決まっている勝負をすること。
それだけでいいでしょう?

ありのままの自分を引き受けることは、
一瞬はつらそうに見えるので、
妄想の城で怠けているほうが居心地よく思えます。
でも、そのときどきの自分をこまめに引き受けるほうが、
あとでまとめて傷心のツケを払うより、
よっぽど楽だと思うのです。

理性は人を楽にする。そう春野は思います。

さて、今回も出てきた、
根拠なき「こうあるべし」の妄想の城。
それを突き崩すために、
科学的思考はどんなことができるのか、
みなさんと考えていきたいと思います。
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ふたたび、ズーニ−山田です。
頭悪いから…という口実に逃げていたい、
受験生の心理は日常でも起こりやすい。
「私、ブスだから…」
「もう、歳だし…」
「一流の学校でてないから…」
ってグジグジしてる時、
実は「可能性の温存」という甘いアメを舐めている。
何かを捨てて、何かを引き受けない限り、
等身大の自分にしか紡ぎ出せない、
自分本来の美しさに出逢いようもない。

(Lesson 22 おわり)

2000-10-25-WED

YAMADA
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