私のニッチはどこにある?−(1)自分とは何か?
出版によって何か変わったか?
と友人に聞かれ、
はじめて、心に小さいゆとりができた
と答えた。
会社を辞めてからこの1年半の私は、
いつも何か必死な感じで、
小さなことに、いらいらしたり、
傷ついたりしていた。
例えば、
会社などに電話するとき、
「山田です」
では取り次いでもらえない。
「どこの山田さんですか?」
「所属は?」
「お立場は?」
と聞かれる。
そのたびに動揺した。
いまなら、さして苦痛もなく、
「どこにも所属はしていません」とか
「ただの山田です」
と言えるだろう。
他にも、フリーランスなのだけど、
間違えて「フリーター」と言われただけで
怒ったりした。ちっちぇえ自分。
いまだからわかるけど、
人からどう見られるかよりも、
自分で、自分が何者か言えないことからくる、
いら立ちだった。
そして、いつも何かを待っていた、
いや、「待ち望んでいた」
というべきかもしれない。
特にメールの受信を待つ間、
祈るような気持ちで何かを待った。
そして、何も来てないとがっくり落ち込んだ。
自分に自信がないものだから、
人から何か言ってもらうことで、
自分を確認したいのか?
と思ってみたりした。
しかし、いい知らせや、
仕事の依頼や、
優しいたよりが届いたときも、
それは、とてもうれしいのだけど、
それだけで、1日明るくなるくらいなのだけど、
何か、自分が待っていたのはこれではない、
という気がした。
自分は何を待っているのだろう?
そんな不安な状態は、
ちょうど、貝を無くしたヤドカリのようなものだ。
あわよくば、
どっかの貝に入りたがる。
つまり学校とか、会社とか、気を抜くとすぐ、
何かの集団に所属しようと考えている自分がいた。
本当に飢えたガキみたいに、
私は居場所を求めていた。
でも、それでは、会社を辞めた意味がない。
すでにあるものにのっかるのでなく、
自分で何かを起こすとか、
自分で何かをつくるとか、
そういう力を鍛えようとしていたのだ。
会社を辞める前後から、
ほんとうに世の中は自分の思い通りには、
いかないものだなあと、実感した。
何より人間が大好きで、
人に会うことや、
チームで何かをするのが大好きだった私は、
会社を辞めて、
もっとさまざまな人と広くつながれる、
もっともっと自分の活動の領域を広げられる、
とわくわくしていたのだ。
ところが、そんな想いと、
現実は、どんどん逆行していくように思われた。
思いがけなく、
「書く」ということが仕事の中心になってきたので、
人に会えない。
何日も人に会わずにいると、
なんとも心細い、
自分の輪郭を失うような感覚がしてくる。
しかし、人間、よくしたもので、
どんな生活でも、
だんだんと慣れてくる。
私は、「どんと受け止めよう」と思い始めた。
書く、ということも、
ひとりぽっちの毎日も、
人生に、いろんな時期があって、
今はそんな時期なのだ。
何か、今まで鍛えていなかった力を
鍛えるまでは、
次のステップにいけないのだと。
こうなったら、孤独もとことん引き受けよう。
それから、人が望むことで、
私にできることなら、
どどーん、と引き受けよう、と思った。
たしか、今年、3月の終わりの、
地下鉄のホームで、自分にそう誓ったのだ。
ここから始まる。
えも言われぬ強さが、自分の中から
わきあがってきた。
だから、本を書くことには、はらをくくって、
とても無心にのぞめた。
本を書いてどうこうしようとか、
自分探しとか、
人とつながろうというようなことは、
もう、考えることはなかった。
はじめてだから、そんな余裕もなく、
ただただ無心に書いた。
そんな形で7ヶ月が過ぎた。
だから、本を書き終えたとき、
自分が泣くとは、
思っても見なかった。
本を読んでもらえばわかるけど、
泣くような内容の本ではぜんぜんない。
むしろ、自分のやってきたことを、
できるだけ客観的に書くことに
意識を向けていた。
ところが、最後の最後、5行を書いたとき、
段階的に感動が押し寄せた。
まず書き終えた瞬間、
この7ヶ月の結晶のような、
きれいな気持ちが訪れたのだ。
言葉にすると陳腐になるのだが、
それは一言で言えば、
「読む人の力を生かそう」
という気持ちだ。
自分という存在も、
エゴもなにも取り去った果てにあるような、
他者に対する純粋な気持ちになった。
たぶん「他者」への、
生まれてはじめて出逢うような、
美しい感情に、自分でも驚いた。
涙がにじんできた。
次の瞬間、
「あ、これが私だ」
と気づいた。
つまり他者の力を生かすサポートこそ、
自分の存在理由である。
これまでもそうだし、これからもずっとそうだ。
その自分の原点がわかったのだ。
「あ、これが、私……。」
この1年半、ずっと何かを待っていた。
メールの受信のときもずっと息をつめて待っていた。
それは、これだ!
と思った。
自分とは何か、私は見失っていた。
そして探していた。
私は私に会いたかったのだ。
そして、自分が見つかるということは、
自分にとっての「他者」が見つかることと同義なのだ。
他者と自分がつながるということと同義なのだ。
一見、孤独な「書く」という行為は、
こんなにも確かに「他者」とつながっていた。
どっと涙があふれ出した。
そっからは、もう
とめようがないくらい、直感的に、
この1年半、ひっかかっていたことや、
うまくいったことや
うまくいかなかったことの
原因がわかって、つながっていって、腑に落ちて、
ああ、ああ! と
涙がとまらなくなっていった。
たいそうなことを言うと、
人と世の中の理(ことわり)を
かいま見たような気がしたのだ。
会社を辞めてこの1年半の私は、
荒海に、放り出された小さなボートだった。
自分の想いとは、無関係の
圧倒的に強い力で流された。
それでも、私は必死でボートを漕いだ。
自分の行きたい方向からどんどん外れても、
この先、どこへいくのかわからなくても、
とにかく、自分の行きたい方へ、
ボートを漕ぐことをやめなかった。
そうやって流されて、流されて、
漕いで、漕いで、
知らない港に流れ着いてみたら、
そこは、自分が一番行きたいところだった。
本のラストに、そんな感動的な結末が待っていようとは、
想像さえできなかった。
相変わらず、明日のことはわからない。
外的な状況は変わっていない。
自分もまだまだ弱い。
だけど、2001年の10月、
私は、書くことで、私のかけらを見つけた。
これは増えも減りもしない、
小さいけど確かなものだ。
もし、あなたが、
自分から遠くなるような不安なときは、
本当は、自分に近づいているのかもしれない。
だから、希望をもってほしい。
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円
内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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