Lesson80 批判とどうつきあうか?
――批判・反論の条件(2)
好調と不調の波、あなたはどう乗り切ってますか。
好調のときは、
いいものができるから、
まわりの人の支持も集まる。
そういうときは、勢いがあるから、
批判を寄せ付けにくいし、
来ても対応を考えやすい。
ところが、
不調になると、
いいものができない。
たぶん、表現力や判断力やいろんなものが
弱っているからだろう。
だから、「批判」が押し寄せる。
周囲もさっと冷たくなる。
自分自身への不信、
協力者からの不信、
浴びる批判。
と、不調のときは、
このきついスパイラルが、
どこまでも下っていくのだろう。
私の場合、
好調も不調も、なにも、
一人称「私」で、外に向かって考えを発信することは、
まだ、はじまったばかり、
いっつも崖っぷちで、
波を考えるゆとりさえない。
好・不調の波を実感できるというのは、
自分なりのスタイルができて、
自分を外から見られてこそなんだな、と思う。
だから、
今日、お話する
「批判とどうつきあうか?」
というのも、
とても人にオススメできるような立派な話ではない。
悩んでいる。
模索している。
若葉マークの私が、
個別で、具体的な体験を通して
いま、見ている世界にすぎない。
それでも、たたき台くらいにはなる、と思う。
このコラムを自分の意志で、
しばらく休もう、と思ったことが1回だけある。
不調をきどるほど、キャリアはないが、
自分なりに、
カーブが下降しているな、
このままじゃヤバイな、
と感じたことがあった。
不調って何? どんな状態なの?
というのを、いろんな「書く人」に聞いてみたい。
自分の思うものが書けないこと?
書いていて、どんづまって苦しいこと?
そんなんなら、私はいっつもだ。
だから、私の場合、それは不調とは言えない。
私の場合、
やばいなと感じるキザシは、
自分と周囲との不調和だ。
これは、長い編集生活の中で、
痛い思いをして身についた感覚だ。
つまり、
いいものができない、苦しいと思って、
自分で、いいものができなかったと思って、
やっぱり結果も悪かった、
というのは、不調というより未熟に近い。
努力して伸びていけばいい。
また、予め、周囲の反応は悪いかもしれない、
あるいは、理解されないと思うがそれでいい、
と思ってやって、
やっぱり理解されなかったというのも、
状況と自分のポジションが読めているということだ。
ところが、
自分の読みと、
外界が不協和音をかなではじめるときがある。
例えば、会議で、これだけは絶対、大ウケだ、
と思ってやったことが、総スカンをくらう。
あるいは、
自分ではこう言ったつもり、
というのが違う意味にとられて反撃をくらう。
自分では、「そんなこと言ってないよー」
と反撃しても、
やっぱり複数の人から、そういう指摘を受けてしまう。
そういう不協和音が、長く、あるいは、
さまざまな場面でつづくことが、
編集の仕事においての、私なりの不調感だった。
さまざまなものに、予測はつかないし、
予定調和なんてつまらない。だが、
それとは、ちょっと違う感覚なのだ、このズレは、
不調和、不協和音。
このコラムの場合は、
そういう不調感までは、まだぜんぜん行ってなかったが、
自分の投げかけた「つもり」と、
現実に返ってくるメールに、小さなズレを嗅ぎ取った。
自分の「つもり」が、うまく伝えられていない。
自分の「つもり」が伝わって、
それに、ずばっと反論がくる、
というのはいいのだ。
それとは違う、正体不明の不協和音。
それが1件、2件と重なっていく。
自分では、書く気がたっぷりだったのだが、
外から自分を認知する力が落ちているのだ、
このまま突っ走るとよくない、
そう思って、しばらく休もうと思った。
休んで、視野を広げて、
どこが問題なのかじっくり考えて再開しようと。
でも、
「まてよ。」
と思い直した。
自分の「つもり」と、外から見た自分がずれてる、
ってことは、状況判断力が鈍っている、ってこと。
そんなときに、自分だけで
休載の判断をしてしまっていいのか?
そんな時は、外から
自分を見た情報を参考にしなくては。
そこで、ネットや編集に詳しい人に相談したら、
「書きながら考えたほうがいいのでは。
自分の知る範囲では、休んでじっくり考える、
が、なかなかうまく行かない現実がある」
というアドバイスをもらった。
このとき、友人から別件でもらったメールの中に、
「逃げても、いつか必ず、
その問題は何倍にもなって自分にふりかかってくる。
いつか必ず向き合わなければいけない」
というのがあり、この手のことはよく言われるが、
その日、彼女からのメールだけは、とても心に残った。
結局、私は、休まず書きつづけることにした。
このとき、でも、やっぱり、
自分で思うものは書けなかったのだが、
あとから、「休まず書いてよかったーー」、
という気持ちが、
波のように、ひたひたと押し寄せてきた。
少しだけ、気がついたのだ。
休んでじっくり考えよう、という自分の誤算に。
そこには、こんな理屈が働いたと思う。
「坂を降りていくような今の自分の状態は、
本来の自分の姿ではない。
だから、休んで英気を養えば、
また、本来の自分を発揮できるはずだ。」
人が、どうかわからないが、
私にとって、この理屈はおかしい。
本来の自分って何?
どんな人にも、好・不調の波はある。
ピークと、どん底と、上がっていく時と、
下がっていくときと。
それ含めて、全部が本来の自分であり、
全部が実力ではないか。
それを、いいときだけ見て、
自分の力の底は見ない。
すると、どうなるか?
まず、自分の力の振り幅を、自分でつかんでない。
だから、
私の言う、「休んで本来の自分を取り戻す」、
が仮にうまく行ったとしても、
自分の力に対する幻想が生まれやすい、
ということだ。
底辺を味わったことのない人間は、
何か失敗したって、「そんなはずは」になってしまう。
それに、
状況や自分への認識力が下降しているとき
現場を離れれば、
つまりは、書いてないから感覚が鈍る。
読者の状況を判断する感覚もますます鈍るだろう。
そういう体力が落ちているのに、
頭だけ「本来の自分」に戻ろうとしても、
うまくいけばいいんだけど、
行かなかったらどうするんだろう?
以前より激しい「そんなはずは」になるんじゃないんだろうか?
私は、リフレッシュすることが逃げだとは思わない。
ただ、そこにある自分の「そんなはずは」の状態によっては、
逃げとなり、後で何倍も……、
なんてことになりかねないな、と思った。
以前、編集者のJさんに
「嬉しい時も、悲しい時も書いてください。」
と言われ、この言葉はとても自分の支えになっている。
つまり、書きつづけるということだ。
自分の力の底辺と、
それが繰り出す状況を直視する。
不調の自分が繰り出す状況、
自分に寄せられる批判は、まさにそれだ。
自分へのワーニングが全くなかったら、
周囲との不協和音にさえ気づくことはできない。
ある日、ある時、その人は、
自分の発言に対してそう思った。
そのことを、
それ以上でも以下でもなく、
直視する
というのは、随分バランス感覚が求められる作業だ。
批判や反論には、
独特の、身体に響くものがある。
感動などプラス方向で、
同じ振動を与えるとすれば、
相当な表現力が求められるだろう。
だから、自分のこの身体に感じる
「ずしん」が何なのか、
私は興味がある。
以前このコラムで紹介した
ダスティン君の言葉を借りれば、
自分の暗号を解く、
それに、近いなと思った。
だから、批判や反論への対処法とか、
こっちが悪いとか、
あっちの誤解だとか、
はやく着地点を決めようとするのではなく、
受け入れたくとも受け入れられない
突き放したくとも、突き放せない、
この間で揺らぎ、考え続けてみようと思った。
時折、自分の中の「ずしん」が何なのか、
耳を澄ませながら。
一つ、これだけは、と思ったのは、
批判する人への反論のために
ものを書かないようにしようということだ。
批判されたとき、
とくに、自分という人間を非難されたら、
「私はそんな人間じゃないんだ、
もっと強いのよ、いい人間なのよ」
ということを、自分の書くものを通して伝えて、
批判者に言い返したくなるような心の動きはある。
でも、果たしてそれは、
自分が言いたいことなのか?
「山田ズーニーは、いい人間です」
なんて、そんなつまらないメッセージを言いたくて
書いているんじゃない。
もっと伝えたいことがある。
だから、批判を直視して、
でも、目先にとらわれない自分の志を遠くに見て、
自分の「ずしん」にも耳を澄ませながら、
このシリーズで、あなたの知恵ももらいながら
批判とのつきあいを考えていきたいと思う。
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円
内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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