おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson90 批判・反論のルール 次々とターゲットが変わる政治家への批判など、 マスコミで批判の光景を見ていて、 いつも、不思議に思うことがある。 批判される人の家には、 FAX・電話・張り紙・罵声など、 大量の批判が押し寄せるという、 しかも「死ね」「バカヤロウ」といった 相当ひどい内容のものが行っているという。 犯罪者などは、親にまで、 「どんな育て方をした」と。 深夜、早朝、時間選ばずだ。 いったいだれが出してるんだろう? すごいエネルギーだな、とも思う。 批判には、必要なものもある。 問題なのは、必要以上に相手を傷つけてしまうこと。 この「必要以上」というところがミソだと思う。 そこには、こんな理屈が 働いてないだろうか? 批判の風景1――裁く 責めていい。 この人は、悪いことをした。 だから、私は、この人を責めていい。 責めていい。 この人は、間違ったことを言っている。 だから、責めていい。 責めていい。 この人は仕事がよくできない。 私は、よくできる。 だから、私は、この人を責めていい。 批判の風景2――突く 責めていい。 この人は、私より立場のある人だから、 私より多くを持っているから、 私より、賢く強い人だから、 だから、私は、この人を責めていい。 批判の風景3――欠く 責めていい。 女性を代表して、 働く者を代表して、 日本人を代表して、 責めていい。 当事者だから、 同じ経験をしたから、 嫌な想いをさせられたから、 責めていい。 どんな言い方をしてもいい。 自分の感情をぶつけていい。 ついでに日ごろのうっぷんもぶつけていい。 責めていい。 ネットなどの批判文をみていても、 どうも「ひと言多い」ものが、気になる。 言い過ぎてしまう傾向がある人は、 よく「口をつつしめ」と言われると思うが、 本人が納得していないと、 なかなか口は閉まらないものだ。 発言が過剰になるとき、 考えるプロセスに飛躍がある。 この飛躍を自分で発見できるようになることだと思う。 例えば、1の風景で、 ある人が、自分の考えと違うことを言った、 「だから、私がその人を責めていい」 ということにはならない。 この結論になるまでには、最低でも、 次の3つを検討する必要がある。 自分と相手、本当に間違っているのはどちらか?(WHICH) 相手にどのような方法で伝えるのが有効か?(HOW) 自分には、相手を責める権利があるか? (WHO―だれがその権利を持つか?) 人は、「裁き」モードに入ると、 どうも思考の丁寧さを欠いてしまう。 言い過ぎた分は、「自分にはねかえってくる」 というのは、なにも因果応報ということだけでなく、 自分というメディアが、論理性や、思考力を欠くという、 マイナスの宣伝をする結果になってしまうからだ。 批判・反論には、 小論文的にはちゃんとルールがある。 相手の発言から、次の5つを読み取っていることだ。 論点 (相手が採り上げた問い) 意見 (相手が一番言いたいこと) 論拠 (根拠とその筋道) キーワードの定義 (相手がどんな意味でつかっているか) 根本思想 (相手の発言の根っこにある価値観) そして、批判・反論を展開してよいのも、 この5つのポイントだ。 相手の結論に批判するのか、 結論には賛成だが、根拠に問題ありとするのか、 文中によく使われる「キーワードの定義」に 問題を感じるのか、などだ。 5つのうち、最も重要なのが、 論点と根本思想だ。 論点、つまり、そもそもの「問い」を共有していないと、 その先、賛成だろうが、反対だろうが、 議論にはならないからだ。 そして、相手の発言の根本にある価値観を 深く正しく押さえることは、 意見をつかむより重要なことだと私は思う。 例えば、暴力シーンが多いからといって、 その映画が暴力映画と批判するのは早計で、 創り手の根っこに、 人や暴力に対するどんな姿勢や価値観があるかが、 焦点になる。 5つの読解ができていないと、 批判が「的外れ」ととられる可能性が大きいし、 この5つ以外のことについて批判しても 「瑣末なこと」ととられる可能性が大きい。 そして、そう相手にとられてしまったら、 それは、そのまま、自分というメディアが、 基礎的な読解力を欠き、瑣末なことに反応する というマイナスの宣伝になってしまう。 批判は両刃の剣と言われる。 それぐらい、自分の理解力・論理性を、 一瞬にして、露呈してしまう高難度の技だ。 だから、強靭な論理性が求められる法学部などで、 反論や、再反論の小論文入試が課される。 逆に、批判の適確さで、 一度に相手の信頼を得ることがあるのもうなずける。 批判を甘く見ていると、どんどん足元をすくわれる。 基本は理解・読解と心得て、慎重に臨みたい。 先にあげた3つの風景のように、 責めていい、というモードになったとき、 人は、慎重さを欠き、 本来持っている理解力を生かせない。 ネットで、見知らぬ人とメールを交わすことは、 ネットの暗闇で、手探りしあって、 ようやっと人と人が出会うようなものだ。 そして、多くの場合、自分と相手と、 それを見守っている観衆とも出会うことになる。 自分が批判のターゲットに焦点を向けている、 まさにとき、相手や、まわりに、 自分の理解力や思考力、 自分というメディアの信頼性を語っていることにもなる。 伝わったのは、 結局、どんな自分だったろうか? 『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田ズーニー著 PHP新書660円 内容紹介(PHP新書リードより) お願い、お詫び、議事録、志望理由など、 私たちは日々、文章を書いている。 どんな小さなメモにも、 読み手がいて、目指す結果がある。 どうしたら誤解されずに想いを伝え、 読み手の気持ちを動かすことができるのだろう? 自分の頭で考え、他者と関わることの 痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。 (書き下ろし236ページ) bk1http://www.bk1.co.jp/ PHPショップhttp://www.php.co.jp/shop/archive02.html |
2002-04-03-WED
戻る |